極私的批評空間

(八当り的悪口のあれこれ)

目次

****- Neil Shubin, Your Inner Fish
***-- Dan Brown, The Lost Symbol
****- Stephanie Meyer, Breaking Dawn
****- 白石 良夫 「かなづかい入門」
****- Stephenie Meyer, New Moon
***-- 山本 夏彦 「完本 文語文」
***-- 福田 恆存 「私の國語教室」
***** Stephenie Meyer, Twilight
**--- 渡部 昇一 「知的生活の方法」
***** 斎藤 美奈子 「文章読本さん江」
***** Ernest Hemingway, The Old Man and the Sea
****- 萩野 貞樹 「旧かなづかひで書く日本語」
***-- Clive Cussler, The Navigator
****- Clive Cussler, Black Wind
***-- Steve Berry, The Alexandria Link
***** Thomas L Friedman, The World is Flat
****- Michael Crichton, Next
****- Jack Higgins, White House Connection
***-- Jack Higgins, Dark Justice
***-- Clive Cussler and Jack Du Brul, Dark Watch
***-- Clive Cussler and Jack Du Brul, Skelton Coast
**--- 池田 晶子 「勝っても負けても」
***-- 上坂 冬子、加藤 紘一 「中国と靖国 どっちがおかしい」
***-- Stephen King, CELL
**--- 藤原 正彦 「国家の品格」
****- Dan Brown, Angels & Demons
***** 高橋 哲哉 「靖国問題」
***-- Jonathan Kellerman, Twisted
****- Ken Follett, Whiteout
****- Dan Brown, Deception Point
***** Dan Brown, Da Vinci Code
*---- 西尾 幹二 「国民の歴史」
**--- Eric Van Lustbader, The Bourne Legacy
****- Frederick Forsyth, The Veteran
***-- 城 繁幸 「内側から見た富士通 『成果主義』の崩壊」
***-- Michael Crichton, State of Fear
****- Patricia Cornwell, Postmortem
***** なだ いなだ 「神、この人間的なもの」
**--- Patricia Cornwell, Blow Fly
***** J. K. Rowling, Harry Potter and the Order of the Phoenix
***-- J. K. Rowling, Harry Potter and the Goblet of Fire
****- 橋本 治 「上司は思いつきでものを言う」
***-- J. K. Rowling, Harry Potter and the Prisoner of Azkaban
****- 谷田 和一郎 「立花隆先生、かなりヘンですよ」
**--- 立花 隆 「東大生はバカになったか」
****- 高島 俊男 「漢字と日本人」
***-- 藤沢 周平 「たそがれ清兵衛」
****- Michael Crichton, Timeline
***-- AERA Mook 「頭脳学のみかた」
*---- 養老 孟司 「バカの壁」
***-- Michael Crichton, Prey
****- Ken Follett, Hornet Flight
****- J. K. Rowling, Harry Potter and the Chamber of Secrets
***** Ken Follett, Jackdaws
****- J. K. Rowling, Harry Potter and the Philosopher's Stone
****- A. Beevor, Stalingrad
***** 浅田 次郎 「歩兵の本領」
***-- Robert Ludlum, The Sigma Protocol
****- R. D. Wingfield, A Touch of Frost
****- R. M. W. ディクソン著、大角翠訳 「言語の興亡」
*---- Patrick Robinson, The Shark Mutiny,
***-- 研究社「新英和大辞典」第六版
**--- Stephen Hunter, The Master Sniper

Paper Back: Neil Shubin, Your Inner Fish, First Vintage Books, 2008

2010-01-16 (Sat): ****-

Audio Books: Neil Shubin, Your Inner Fish, Audible.com, 2008 (narrated by Marc Cashman)

2010-01-16 (Sat): ****-

とっかかりはとてもエキサイティング。 著者のとてもストイックな職業観とか、化石ハンティングの企画、準備、 遠征の実際など、本当にわくわくさせられる。 著者が自嘲気味に語るところによると、 夏休みの殆んどを半ば氷や雪に覆われた北極圏で魚の化石を探す事に費してきたそうな。 その事にもなんだか尊敬の念を覚えるが、その前に地元(ペンシルバニア州) で予備調査をしており、それによる知見を確認するために遠征したようなものだ。 要はお金を掛けずに大方の成果を上げているという事。

特にロケーションハンティングのやり方の詳細は、 日頃の疑問に答えてくれただけでなく、新たな視点を与えてくれた。 程度の良い化石を得るためには、 他の化石が露出している程度には地表に近くて、 かつ、狙いの化石は浅く埋まってなければならない。 つまり、遠征の正否はいかにうまく場所を決めるかだけでなく、 いかに正しい時間にそこへ行くか、にもかかっていると言うこと。 その窓はとても狭い。サイトが地表に近づくには地質学的な時間がかかるが、 一旦露出されたら、 全部の化石が押し流されてしまうのに一晩しかかからない事もある。 かなり運まかせであり、まさにハンティングである。云々。

ところで、狙いは地上に上る直前の魚の化石である。(後に Tiktaalik と名付けられる。) 著者らは首尾よくこの化石を発見するのであるが、そのあたりから、 最初の興奮がちょっと冷めてくる。 まず、魚類と両生類の間の種の化石は既にいくつか発見されていて、 この新種はそれより少し前のものなのだが、 ミッシングリンクとしては然程重要なものとは思えない。 つまり、化石発見までの彼の執念と努力、また発見後の自身の自負の大きさ、 等が、古生物学の中での位置付けにそぐわないのである。

また、そこから少し唐突に、 発生学と進化論を組み合わせた議論になる。哺乳類の耳小骨のうち、 既に両生類が持っている鐙骨(あぶみこつ, Stapes) は魚類の舌顎骨 (Hyomandibular) から来ていていて、さらには、それは胚の第一鰓弓(の萌芽?)から発生する。 一方、哺乳類も後期になって初めて獲得する他の二つ(砧骨 Incus、槌骨 Malleus)は魚類から爬虫類を通じての顎の骨から来ていて、 しかも胚の第二鰓弓から発生する…… 等という知見は、それ自体がとても興味深い上に「ボディプランや各デバイスの進化は、 先代の種のそれらの一種場当たり的な借用から始まっている」 という著者の主張を裏付けるものであるが、 上の魚の化石の話とうまく繋っていないように思う。 (話が込み入り過ぎていてよく理解できなかった、 というだけの事かも知れない。しかし、 Wikipedia 「耳小骨」にある歴史の項の記述は、はるかによく解るし興味深い。)

加えて、 例えば哺乳類の目の発生が、例えば蠅のそれと同じ遺伝子に司られている、 等の知見もとても興味深いものではあるが、そのような「大まか」な話だけでなく、 もっと具体的な面(複眼と単眼の分れ道だとか、単眼の進化の詳細とか) も触れてもらえるともっと嬉しかっただろう。

とはいえ、これらの「不全感」 は筆者(私)の一方的な期待というか予断から来ているとも言える。 虚心坦懐に読めば「すごく面白い」部類になるのかも知れない。


Hard Cover: Down Brown, The Lost Symbol, Double Day, 2009

2009-12-04 (Sat): ***--

Audio Books: Down Brown, The Lost Symbol, Random House Audio, 2009 (read by Paul Michael)

2009-12-04 (Sat): ****-

ウェブサイトを含めても、こちらで本を予約するなんて事は滅多にないが、 近所の本屋さんの勧誘に負けて、この本は予約で買った。 (本屋さんで予約するのは初めて。) だって、そこら中にポスターが貼ってあるんだもの…… いや、そうではなくて、それだけ期待が大きかった、という事。

しかし、この予約ってのがなんだか怪しい。確かにちゃんと入荷を E-mail で知らせてくれたが、それには 9/15 - 9/25 の間に取りに来い、とあるだけ。 取りに行くといっても、日本の本屋さんでやるように、レジで本を渡される、 というのではなく、自分で店先の本をレジに持っていくものらしい。 要は普通 30% のところを予約者には 50 % の割引(厳密には、会員の 40 % 引きからさらに 10 % なので、46% 引き)で売ってくれる、というだけの事のようだ。 (「だけ」とはいうものの、考えてみれば結構大きいな、これ。)

ともあれ、読んでいてとてもわくわくドキドキさせられるのは流石である。 また、色々勉強になる事も多い。(Harvard 大学の講義で、キリスト教の礼拝をカルトの野蛮極まる儀式のように表現して、 学生を煙に巻くところなどは秀逸だと思う。)

が、はっきり言って感動するところまでは行かない。 構成が凝りすぎの上に話(章)がぶつ切れになっているせいで、 はらはら、というよりは、イライラさせられる。 また、プロットがいかにも無理っぽい。(以下ネタバレ有り……) 例えば、いかなる確執があるとしても、何年もつきあっていながら 親の方が子供(息子)に気がつかない、なんて事があるだろうか。 また、今回も Langdon 教授は溺れそうになり、いや実際溺れてしまうのだが、 それが水ではなく、四塩化炭素だったので死ななかった。 しかし、この悪党がどうしてそんな装置を(しかもそれと知らずに)入手し得たのか? 云々云々。

何より、肝心の宝探しの宝物が「えー、何それぇ」で、がっかりする。 いや、それはそれで「深遠」なのかも知れないが、途中の "Noetics" に関する記述や、 「現代物理学の最先端の理論が何世紀も前に宗教書の中で示唆されている」云々 が、あまりにも牽強附会で浅薄なので、がっかりが先に立つのだろう。

少々唐突であるが、最近「『水からの伝言』を信じないで下さい」という Web 記事を読んで、「何と真面目な科学者だろう」と感心するとともに 「でも、まあ、そんなものを信じる人は多くないだらう」とも思っていた。 が、さにあらず。Dan Brown さんでさえそれを信じているように見える (登場人物にそう語らせているだけ、かも知れないが。)

Katherine's experiments demonstrated the effect of human thought on everything from ice crystals to random-event generators to the movement of subatomic particles. The results were conclusive and irrefutable, ... (p.495)
要は、著者の言い分が似非科学の擁護にも見えるという事。 それにしても、科学技術に明るいとされる Brown さんでさえ、これである。

余談だが、日本の政府や文科省はノーベル賞受賞者の数を増やす事より、 国民全体の「科学リテラシー」の向上を図った方が得策ではないだろうか。 自慰史観を云々するよりずっと実効が上るだろうし、 またそれはきっと長期的に見て米国を追い越すための近道にもなるだろう。 (なにせ、米国ではまだ進化論さえ仮説の一つなんだから。)

あと、CIA の Office of Security の局長として、Inoue Sato という女性が登場するのであるが、これはどう見ても「井上 サト」さんだろう。 Brown さんは、サトを佐藤(名字)と勘違いしたに違いない。 それとも、最近は日本人もしくは日系人も、Inoue Sato と(性→名の順で)名乗るようになったのだろうか。

最近、iTunes ストアの Audio Books は非常に充実してきていて、 この本の Audio 版も、程なく発売された。 また、この本も iPhone では章毎に頭出しできる。とは言え 133 章にも分れていると、これは却って煩わしい事もあるが:-p) 読み手の Paul Michael さんは私には初めてかも知れない。("Da Vinci Code" の Audiobooks は持ってないので。) 緩急があり、また声色(?)を使ったりと、臨場感溢れる朗読になっている。 聞き取れない事も多いが、これは私のリスニングの力が落ちているのではなくて、 あまりに外国語が多いから、と思う事にする。


Hard Cover: Stephenie Meyer, Breaking Dawn, Little, Brown, 2008

2009-10-31 (Sat): ****-

Audio Books: Stephenie Meyer, Breaking Dawn, Audible.com, 2008

2009-10-31 (Sat): ****-

なんだかんだで、"Twilight Saga Series" を全部読んでしまった事になる。 Twilight *****, New Moon ****-, Eclips ***--, で、完結編のこの Breaking Dawn ****-。 いい年した親父が "Juvenile" を熱心に読んでしまった言い訣ではないが、あまり良く思い出せない。 いや、個々のエピソードは比較的印象深かったのだが、 それぞれがどの巻に有ったかを思い出そうとすると、 かなり心許無いのが多いという事。 言ってしまえば、ちょっとマンネリという事か。 言い換えると、Twilight が出色で、あとはどんどん落ちてきたのだが、 最後にきて、やや持ち直したか、という感じ。

というのは、 最終巻になってようやくストーリー展開らしきものが出てくるのである。 つまり、Bella が Edward と結婚して、出産し、結局吸血鬼になってしまう。 (実は、Bella は Werewolf 系ではないかと思っていた。なーんだ、普通の人間だったんだ。) なんだか、2・3 巻でジリジリさせられていたせいか、 あっさりそうなってしまうと、快哉を叫んでしまった。 また、その細部、例えばとうちゃん(Chief Swan) に結婚の承諾を貰いに行くところとか、 そのとうちゃんが、うろたえて、元妻(つまり Bella の母親)の Renney の反対に期待するところとかは、 いつものように、とても面白かった。(で、Renney は、あっさり承認するだけでなく「何時言い出すかと待っていた」と、 と彼を裏切る。 あっはっは、とうちゃん可哀想。)

その辺はとても良かったのだが、Meyer さん、どうしても「派手なバトル」にしないとお客(読者)に申し訣ない、 と思うのか、今回は他の吸血鬼集団が見守る中 Volturi 一家対 Callen 一家 + 狼人一部隊(16 頭)が対峙するというシーンがクライマックス。 でも、何故か、あまり興奮もしなければ面白くもない。 第一、こう登場人物が多くては、とても話について行けないではないか。 ましてや、御互いに「超能力」を駆使しての戦いなので、 やたら込み入っている上に、ちっともワクワクドキドキできない。

いつもの「あり得ねえ」に話を移すと、今回は何より、Renesmey (Nessy) に尽きるだろう。吸血鬼になる前の Bella と Edward との間に生まれた子である。 そのどこがおかしいかって?あのなあ、違う種の間では子供は生まれないんだってばぁ。 「交雑できない」が「種が違う」という事の定義でもあるんだから。 というか、吸血鬼は染色体の数が 25 対で人より 2 対も多いらしい。(ちなみに、 Werewolf は 24 対。多ければ良いというものではなく、例えば この 24 対はチンパンジーと同じ。) これと双璧は、Bella が岩に手を押し付けてみたら、 固めのチーズにそうしたように手が入った、というあたりか。 Bella の手がどんなに固くて強くても、 岩石は(割れる事はあっても)チーズのようには変形しないし、 そもそも、指が自由に曲げられる材質が、 同時にそんなに強い(固い)訣がない。 (スーパーマンにも共通する「論理的弱点」であるが。)

これらに比べたら、二三歩の助走で、100 m の距離をジャンプする、なんてのは可愛いもの……。 とはいうものの、銃弾に対してはどうなのかは知りたかったなぁ。

Audio Books は、いつものように、iTunes Store から買った。Ilyana Kadushin さんのナレーションもやっぱり良かったし、iPhone の上でも章ごとに頭出しができるようになった。(これは嬉しい。) ただ、本書は三部構成になっていて、真ん中は、Jacob が一人称で語るスタイルになっているせいか、Audio Books でも男性の Matt Walters さんが担当している。こちらも悪くないが、Ilyana さんに慣れてしまっているのか、少々違和感が有った。

これまた例によって、全く関係ないブログに言及してしまうが、 丁度、Bella がつわり(それも命にかかわる強烈なやつ)に苦しんでいる頃 (勿論私がそれを読んでいる頃)、 たまたまそれで苦しんでいる人のブログを見掛けた。 「ひつじこ日記」 がそれ。ご本人達の大変さを棚に上げて、勝手を言わせて頂くなら、 とっても元気が貰えてます。Bella のファンでもあったけど、もうスーパーヒーローになっちゃったし、 心配する必要もない。だけど、ひつじこさんには「頑張れよ」と。 というか、もともとは「ヒラショー」日記のファンだったのだが、 このところ(ひつじこさん言うところの)「ひらしょさん」、料理に凝っているようなので、 こちらにはライバル心を(勝手に)燃やしているのである。


白石 良夫「かなづかい入門」平凡社新書

2009-08-22 (Sat): ****-

少し前に「なんちゃって旧假名」は止す事にしたので、 今更、の観は有ったが、でも敢えて読んでみて良かったと思う。

ところで、 少し前から、野嵜さんと「爺」氏との間の「論争」を興味を持って見ていたが、 野嵜さん、またまた「やり込められた」と感じたのか、 スレッド自体を消してしまった(これで二度目)。 「歴史的假名遣ひは科学的である」が主題であったようだが、野嵜さん、 言い出しっぺでありながら終始「しどろもどろ」か「右往左往」で見ちゃいられない。 まあ、爺氏も傍から「ごくろうさん」と揶揄されるくらいよく頑張ったが、 そもそも野嵜さんの頭の中に無いもの(科学的である事の根拠) を引っぱり出そうというのだから土台無理な話である。 理系人間の「限界」だろうか。

しかしつくづく野嵜さんは情けない――極普通の議論さえ覚束無いようだ。実際、 爺氏はいつもコメントを「そんな事は言ってない」と始めないといけない有様で、 要は人の言っている事をまともに理解できないように見える。 なので当然、事が「反証主義」に至っては「犬に量子力学」 の諺を思い出させるような為体になってしまう。 なのに虚勢を張り、また何とか体面を取り繕おうとするあたりは、 むしろ痛々しいくらい。

しかし、最近幻滅した「旧假名派」と言えば、野嵜さんだけではない。 今となっては、実は福田恆存氏も松原正氏も「何だかなぁ」と思えるのである。 福田氏の「老人と海」の翻訳が「今一」な事は先に指摘したが、 それだけなら何と言う事はないだろう(世の中に下手な翻訳はいくらでもある。) また、一方、その文庫本の解説である「『老人と海』の背景」の偉そうな言い分、例えば

それについてお話する前に、 アメリカ文学にたいする私の不満とはなにかを伸べねばなりますまい。 それは、一口にいうと、人間というものの捉えかたの浅さとでも申しましょうか― 浅いといっては語弊がありますが、ここではかりにそういっておきましょう。
なども、これ自体では、何ということのない「感想」であろう。 が、上の翻訳(つまりはテクストの理解)の不確かさと合わさって、 同じ人の口から出るとなると、 「おっさん、ほんとに解ってんのかいな」とか、 「浅いのはあんたの理解でしょうよ」とか思えてしまう。

で、こんな不遜な気持を持って、「私の國語教室」を再読すると、 「なんか、うまくごまかそうとしてまへんか」と言いたいところがあちこちに有る。 例えば音便への対応においては、 歴史的假名遣ひも「語に沿ふ」の原則を一貫できていない事実を認めた後で

二元論(歴史的假名遣ひ)が二元に相渉るのは妥協ではなく、それが初めからの約束ですが、 一元論(現代かなづかい)が二元に相渉るのは妥協であり、矛盾であります。
などと仰る。 この前後の議論から、一元論・二元論などという生煮えの哲学用語を除いたら、 氏の仰っていることは「単なる手前勝手」だろう。

まあ、こういう背景のあるところで本書を読んだので、かなり引き込まれ、 かつその内容に感心した。 というか、「人は聞きたいと思っている事しか聞かない」の伝で、 「こうではなかろうか」と思っているところをすっきり説明してくれたので、 一際嬉しかった、と言い換えても良い。

一つには、假名遣ひとその研究の変遷を説明してくれた事。 勿論ここに書いてある事は、その表面をなぜているだけであろうが、 「概観できた」ような気はする。さすが、である。 特にその中での「歴史的假名遣ひ」の位置付けが解った(ような気がする)事は大きい。 音韻とその書き表し方としての假名遣いの変遷を示す事で、 歴史的假名遣ひの位置付けというか一種の「相対化」になっている。 で、言ってしまえば、歴史的假名遣ひは「日本語の伝統そのもの」などではなく、 明治の初期に、政府によって「選び取られた」ものに過ぎない、となろうか。 ただ惜しむらくは、その假名遣ひが具体的にどういう風に規定されていたのか、 ここでも示されていない。 「現代仮名遣い」は内閣告示の形で示されているが、それに対応するものは、 歴史的假名遣ひには無かったのだろうか。

また「假名遣とは言葉の書き表し方である(発音の規則ではない)」と 「『記述假名遣』と『規範仮名遣』を区別すべきである」は目から鱗であった。 これらと、 もう一つの主張である「日常使っている言葉こそが正しい日本語である」を合わせると、 「現代仮名遣い」は伝統の観点からも至極全うな体系であると思えてくるし、 それが国語の伝統を壊した、等はとんでもない暴論に聞こえてくる。

敢えて言うなら、この本は福田さんや萩野さんのよりずっと説得力が有る。 なので、萩野さんの「旧かなづかひで書く日本語」に乗せられて使い始めた「歴史的假名遣ひ」(なんちゃって旧假名)であるが、 この本を読んで止める事にした……。 と言った方が格好良かったかも知れないが、 実はその前に飽きた、というか、 あまりに上達が遅いので嫌になって止めてしまった。 (まあ、どっちにしても軽はずみというか、おっちょこちょいである事は変りないが。) しかし、この経験は全く無駄ではなかったと思う。 第一に、歴史的假名遣ひや文語文に、あまり違和感が無くなった。 実際、今ぼつぼつ読んでいる「断腸亭日乗」が違和感無く楽しめる。


Paperback: Stephenie Meyer, New Moon, Little Brown 2006

2009-07-03 (Fri) ****-

Audiobooks: Stephenie Meyer, New Moon, Audible.com 2006

2009-07-03 (Fri) *****

とても面白くて、何度も読みなおしたり聞き直す事ができた。 が、やはり二作目になると、少々「……」も出てくる。

Edward に去られてしまって、我等が Bella は悲嘆のあまり腑抜けのようになってしまうのだが、それがなんとも痛々しい。 でも、あんまりあんまりなので、少々辟易してしまう。

一方、Edward さん、付き合っている間にさりげなく言った「Bella が死んだら自分も生きてはいない」を、 彼女と別れた後なのに実行に移そうとする。 先の Bella の悲嘆ぶりともども、 まるで「ロミオとジュリエット」である。 (本書の中で触れられているのでこう言ってみたが、 実はもう粗筋さえよく思い出せない。) 「こんな純情かつ一途な吸血鬼や少女が居るもんだろうか」という疑問より、 そろそろ「アホらし」の領域に……。

おまけに、「一の親友」だった Jacob 君が○○○なにってしまう。 恋人が吸血鬼というだけでも、相当のものなのに、 親友が○○○だったりすると、ちょっと頭が痛くなる。

それでも、主人公達のさりげない会話は楽しいし、なんだかほのぼのしてしまう。 吸血鬼と○○○が睨み合っているあいだに、Chief Swan の怒鳴り声が響き渡ると、そっちの方が「大事」になったりする。 このお父さん、自分ではガンコ親父を演じているつもりなのだが、 実は、Bella や Edward に(他の吸血鬼から)大事に守られている。 しかも、Bella の「吸血鬼になりたい」願望の実現を逡巡させている理由の一つでもある。 愛されている、というべきか。なんだかうらやましい。私は、この Chief Swan と Alice のファンになってしまった。

勿論、Bella も相変らずなかなか良い。Edward が年を取らない(死ねない)のに自分が年を取っていく、 というのがどうしても受け入れられなくて、18 歳の誕生日に一人ヒネクレているのが如何にも可愛げがなくて、 それがとっても可愛い。

映画の "Twilight" を何度も見たおかげで、 本作を読んだり聞いたりしているときも、 俳優さん達の顔や喋り方が目に浮ぶようになった。 これはなかな良い事かも知れない。Chief Swan (Billy Burke) や Edward (Robert Pattinson) は、かなり二枚目半の味を出しているが、 それがまた良い。最近気が付いたのだが Robert Pattinson は "Harry Potter and the Fire of Goblet" 等では完全な二枚目だ。 顔を白くして眉を太くしているからと言って、志村けんのバカ殿等を連想するのは、 連想する方が悪い。(すんません。)

iTunes store で買った Audiobook だが、やっぱりこれは便利だ。 もう書店で CD 版を買う気がしない。 最近、主に使う MP3 プレーヤを iPhone から iPod (nano) に換えたので、余計そう思う。 Ilyana Kadushin さんのナレーションもとっても良い。 (まだ、速すぎてついていけない事も多いが。)


山本 夏彦「完本 文語文」文春文庫 2003

2009-06-20 (Sat) ***--
実はこの著者の事はあまり良く知らなかった。 雑誌記事はともかく、著書を通読するのは多分初めてだと思う。ただ Apollo 11 の壮挙を「何用有って月世界に」と評した人、という記憶はあって、 迂闊には近付かない方が良いかも、と少々敬遠していた。

しかしこの本は意外にも平易で読みやすい。 引用されている断章はいずれもとても感銘を受けるし、なかなか良いものだと思う。 また、おかげで、何となく心に残っていた詩(「……うれひは清し君ゆゑに」) の作者が佐藤春夫だったと解ったし、中島敦の「李陵」や「山月記」、 また木下是雄の「理科系の作文技術」を読まなくては、と改めて思った。

しかし、何よりの収穫は、 明治・大正と書き言葉としての日本語が如何に激しく変ってきたかを、 改めて認識できた事。 (「假名遣ひ」の問題などは、その変化のほんの一部でしかないし、 「歴史的假名遣ひ」が厳として存在した、なんてのは幻想に違いない。) ほんの 5 年単位でその後を辿れるようなこの激しい変容は、 しかも、誰かが導いたり決めたりしたのではなく、 自然淘汰でそうなった、と思える。 大衆により多く購読される者(表記法)が適者である、という事か。 易きに付いた、とも言えるが、それが進化の法則であったとも言える。 むしろ、この変化がこの時期に集中するのは何故か、という事の方が興味深い。 (多分、幕藩体制下で押し込められていた変化への圧力が、 「文明開化」に促されて出口を見付けた、という事だろう。)

が、しかし、著者御本人の「意見」には、あまり感心するところは無かった。 ことごとくが浅薄で「だからどうなの」と。そもそも

人間の知恵は四書五経、左国史漢に尽きている
は警句としてはともかく、 基本的な認識として話を続けようとしたらたちまちアラが出てしまうトンデモ論だろう。 (もしそれに尽きているのなら、何故科挙に基く官僚制が立ち行かなくなったのか、云々。) なので、兆民先生の刻苦勉励さえ、 この人のパースペクティブの中に置かれると、 なんだか浮世離れした妄動のように見えてくる。 とても失礼な話であると思う。

かてて加えて、何をどうせよ、と言っているのかよく解らない。 これを書くのに、御本人は文語はおろか歴史的假名遣も使わないし、 残すべきと思っている語彙は「東京方言」だけだったりする。 何より、この本の地の文は「漢文脈の口語」とはとても言えない。 少なくとも、引いている「李陵」には遠く及ばない。 使っている言葉や言い回しは古くまたゆかしいのだが、 肝心の「文脈が通っていない」のである。 まあ、「昔は良かった」という話に文脈を通すのは難しいだろうし、 その必要も無いかも知れないが。

敢えて無理に括るなら、 明治の文章や明治の作家の事を良く知っている偏屈爺さんの「繰り言」と言ったところか。 それなら「何用有って……」と言っても不思議ではないし、 またそれは敢えて気にかける程の事でも無いだろう。


福田 恆存 「私の國語教室」文春文庫 2002

2009-03-21 (Sat) ***--

我らが麻生首相、 担当の女性記者達にホワイトディのプレゼントを上げたは良いが、 それにつけた手紙に「心ずかい」とやつてしまひ、 各所で盛り上つてゐるさうな。 これなどは、歴史的假名遣ひをきちんと学んでをれば、 当然避けれられた筈のものであり……嘘です。 「歴史的」でも「現代」でも、假名遣ひは「心づかい(ひ)」とすべきもののやうです。 それにしても、この体たらくを福田恆存氏がご覧になつてゐたら、 その、假名遣ひ論争にどのやうな影響を与へたか、 いささか意地悪な興味を覚えるのは私だけでせうか。 少なくとも、 「(歴史的)假名遣ひは難しくない」とは仰らなくなつただらうと想像します。 何しろ、時の宰相が間違ふのだから。

でも私には同じ手紙の中の「全力を傾けて『気張り』ますので……」 の方がもつとをかしい。 関西弁で「せいぜいお気張りやす」と来れば極普通の励ましであるが、 この流れでは、どうしても麻生さんが「いきんでゐる」やうに聞こえてしまふ。 「内閣総理大臣」の署名捺印付きの立派な用紙に達筆で書かれてあるので、 余計に滑稽と云ふか情無い。

あ、いや、「私の國語教室」の話でした。 「どれもこれも絶版」と云ふ古いウェブ情報や、Amazon.com に一度「品切れ」と云はれたせゐで、すつかり諦めてゐたのであるが、何の事はない、 この「品切れ」は単なる一時的なもので、今回あつさり入手する事ができた。

「老人と海」の翻訳に幻滅してから、著者への畏敬の念は多分に薄らいでゐたのであるが、 本書を一読して「成程これは大したものだ」とかなり見直した。 逆に云ふと、彼の後継者達(正字正假名推進者達)は、 この本の述べてゐるところから一歩も出てないやうに思へる。 インターネット上の論者達から、荻野教授のやうな国語教師達に至るまで。 何より、著者が本書の中でも切望してゐる「専門家によるフォローアップ」 はついに得られずに終つたやうだ。

それも宜なるかな。福田さんにして、既にどうも説得力が不十分なのである。 新仮名の矛盾点を衝き、その不明を批判してゐる箇所は「さすが」なのであるが、 歴史的假名遣ひを擁護する段になると、 新仮名への批判がそのまま正假名へも当て嵌るやうな気がして、 途端にこつちの頭が痛くなる。 勿論、私の理解力と熱意が足りないせゐなのであらうが、 どう読んでも「さうか、確かに旧假名の方が優れてゐるな」とか 「よし、では使ってみよう」と云ふやうに気持が動いて行かない。 この点では、荻野教授の方が上手であつた。 (自分が嵌められたから言ふのではないが。) しかし、これはもともと狙ひが違ふのであるから仕方ないのだらう。 福田さんは、文筆家・国語教師に向けて書き、 あはよくば国字政策に一矢報いようとしてゐるのに対し、 荻野教授は「素人はん」を誑しこまうとしてゐるのであるから。 ただ、福田さんのこの本は 「いかにも人を味方につけるのが下手だなあ、勿体無い」と思わせる。

しかし予断に曇らされず、深く考へてをられると云ふ点においては、 追随者達の遠く及ぶところではない。 例へば、

(p.75) ……しかし、江湖山氏の第二問、 「川ぞひ」の「ひ」を「い」にすることを嫌ふほど語の一貫性、 明確性を重んじるなら、「川にそつて」も「川にそひて」と書けと言はれると、 同じ常識が首をかしげる。/fi/ あるいは /hi/ が、子音の /f/ /h/ を失なつて /i/ となるのと、さらにその /i/ があとの子音 /t/ に牽制されて無發音の /t/ になるのと、どちらが自然か。 音聲学的にはどちらも自然でせう。自然だから起つた變化でせう。 しかし、母音と子音を書き分けられぬ音節文字において、「ひ」を /i/ と讀ませるのに較べて、「ひ」を /t/ と讀ませるほうが無理である事は明かではないか。 ここまで變化した以上、一貫性、明確性の利用だけですませてはゐられない。 第二義的とは言へ、表音文字の厄介になつてゐるからには、 その表音性も利用せねばならぬ。さう考へるのが常識といふものでせう。 (撥音記号の囲ひ?を〔 〕から / / に変更した。)

の箇所などはとても解り易くて、 「発音に沿ふ手段としての音便」が気になつてゐた私には、 感激的と言つても良い程であつた。 成程、 「歴史的假名遣ひの方が系統的」とする理由は、かういふ所に有つたのか。 噛み合つた論争の中での「合理的な説明」らしきものを初めて聞いたやうな気がする。

お蔭様で、自分の中での「もやもや」が明確になった。 やはり、歴史的假名遣ひは文語文を離れるべきではなかつたのである。 つまり、「かわにそって」と無聲化した /t/ を書き表はすのに「つ」 を宛てる「妥協」をするのであれば、さらにそれを若干進めて、 「かわぞひ」を「かわぞい」と書いて何の不具合が有らうか、といふ事。 ついでに「つ」を「っ」と書く事も許されて然る可きではないか。 勿論これらには本書が他の箇所で縷々反論してゐるところであらうが、 しかしそれらは、語源に興味を持つ事ができ、 「は行動詞」の単純明快さを美しいと思ふ方々にとつての議論であつて、私には、 かうする事(「表音」にもう少し擦り寄る事)に然程の「不自然さ」は感じられない。 要は、かう考へれば、「表意主義、語に沿ふ」と言ひ、「表音主義」と言つても、 現代語を書き表はすにおいては、どちらも「不徹底」であり、 それらの間の違ひは然程大きくないし、 その違ひも、原理的なもの等ではなく、単なる程度の問題である (「どちらが自然か」の問題)。 即ち「歴史的假名遣ひだけが『理念』に則しており、かつ一貫してゐて、 現代仮名使ひに根拠は全く無い」 等は、言い過ぎであらう。

他の諸点についても同様で、基本的な事実については「成程」と思ふものの、 それから出てくる「結論」や「論難」については、 いずれも「深読みしすぎ、うがちすぎ、断定しすぎ」の感がある。 議論に勝つて説得に失敗してゐると言ふべきか。

ともあれ、私には、 かつて歴史的假名遣ひを捨てて現代かなづかひを取つた事が、 致命的な誤りではなかつたやうだと納得・安心できる。

いや、「捨てた」は言ひ過ぎで、 今では現代仮名遣ひは強制されるべきものでは無くなつてゐる。 然らば、歴史的假名遣ひ「復興」の王道は、なかなかそれが実現しない現状を嘆いたり、 新仮名使ひの矛盾や投稿短歌の文語文法の誤りを論ふ事ではなく、 例へば、(旧字)旧假名のままの古典を集めた文庫を出版する事であり、 旧假名の新聞を発行する事だらう。 (商売として成り立たない可能性も有るが。)取り敢へずは、 青空文庫の対抗版を、旧字旧假名で始めてはどうか? (少なくとも私は愛読すると思ふ。)

しかし、もつと手つ取り早い方法が有る。 歴史的假名遣ひで、あらゆる論題について明晰な文章を綴つて発表し、 世の人々に「成程、歴史的仮名遣ひを使ふと、書いたものが格好良いし、 思考、思想まで明晰になるのか」と思はせれば良いのである。 福田さん御自身は、明晰で(ある程度)説得的な文章を書かれてゐるが、 それに続く人達はまるで反対をやつてゐるやうに見える。

唯一の直弟子と自他ともに許す松原正早稲田大学名誉教授は、保守派の論客達(西尾幹二氏、西部邁氏等) を「保守派でありながら『現代仮名つかひ』を用ゐる」 「『行く』を『ゆく』と書いた」等と舌鋒鋭く批判して、 「単なる小言辛兵衛」として軽んじられ無視されてゐるさうな。 (ご本人は相手が反論もできない程論破した、と信じておられるらしいが。) 批判の中には、その当否はともかく、 真つ当かつ重大な事も多分に含まれてゐるのであるが、 そちらも合せて無視されてゐるのは勿体無い事である。 特に上記のサイトに転載されている雑誌記事「西尾幹二氏を叱る(三)」の最後は、「これはゴシック體で印刷して貰ひたい位だが、 自國を愛する爲に、なぜ我々は他國を罵らねばならないのか。 (續く)」 と結ばれてゐて、これは大いに共感するところであり、 是非とも続編を読みたいものであるが、残念ながら六年後の今も出てゐないやうである。

さらにその弟子(福田氏からは孫弟子)の 野嵜健秀氏は、 御自分のブログを始め各所で頻繁に歴史的假名遣ひを称揚する書き込みをするも、「長すぎる」 「理解できない」などと、これも読者を辟易させてゐる。 傍目からでも、 この方の言ひ分は議論が噛み合ふ事を自ら拒否してゐるように見える。 こちらはしかし「だから勿体ない」とも思へない、得るところがあまり無いので。 それだけならまだしも、一方で「現憲法無効論」を唱へておられる。 しかし、こちらも、散々に子供扱ひされて、それでも遠吠えをやめられず、 ますます歴史的假名遣ひ派の評判を落してゐる。

言ふまでもなく、日本国憲法は歴史的假名遣ひで書かれてゐる。 その假名遣ひを推奨する方々が、 どうしてこれ(現憲法)を揃つて目の仇にするのか理解に苦しむが、 それでも、野嵜氏は「形式的正当性は手段であり目的は民主主義の確立」 と仰つてゐる。が、しかし、このごろは、 その民主主義(国民主権)を否定すべしと言ひ出す人も居て愕然としてしまふ。 なかでも、南出喜久治氏は、弁護士でありながら、 国民主権どころか「主権」概念そのものを否定、 しかし一方で「天皇親政」も好ましくなく、 立憲君主制もまたケシカラン……云々。 私等は「いつたいどうすれば良いのか」と頭を抱へてしまふ。 でも、まあ「フラクタル理論に則つた社会は安定してゐる」 とか「進化論は否定されてゐる」とかの箇所を読むに至つて、 「なあんだ、これは『あ本』だ、真剣に悩む程の事はない」と思ふやうになった。 その議論の稚拙さ・トンデモ振りもさる事ながら、 品格の無さ も相当のもので、

全部、つながってるんだよ。
はやくそれらを悟れよ。護憲派改正論のボケナス諸君!!!
あ、やっちゃった、ボケナスっていっちゃった。です。

これには私も気が萎へてしまつたので、 日本国憲法には申し訳ないが、 歴史的假名遣ひで遊ぶのはもう「やめ」にしようかと思つてゐる。 あ、でも、この極めて品格に欠ける部分は現代仮名使ひなんだよなあ。 なので、敢へて贔屓目に見るなら、 歴史的假名遣ひには、こんな 「ボケナス(と人様を呼ぶ)野郎」をも折り目正しくさせる効果は有る、 と言ふ事だらうか。 いづれにせよ(どんな假名遣ひをしようと) 内容が「ボケナス(と人様を呼ぶ野郎の)程度」である事は変らないが。


Paper Back: Stephenie Meyer, Twilight, Little Brown, 2005

2009-03-07 (Sat) *****

Movie: Catherine Hardwicke, Twilight, Goldcrest Pictures, 2008

2009-03-07 (Sat) ***--

Audio Books: Stephen Meyer, Twilight, Audible.com, 2005

2009-03-07 (Sat) ****-

本書はミリオンセラーらしい。しかし実は買った時はそんな評判を知らなかった。 しかも、近所の B&N で見かけた時は、若者向け (Juvenile) の棚に有った。普通なら「ふーん」でスルーする所だが、 しかし、その棚 (幅約 1.2 m)全部を占めていたので、つい興味をそそられて…… (もうその棚は無くなっているが、しかし、 今でもその店のレジの後ろの展示の半分くらいを本書が占めている。)

まあ、(ハード)SF ファンから言わせれば、「荒唐無稽」の部類に入るだろう。 Meyer さん、吸血鬼の伝説を広く渉猟して、 かなり「有りそうな話」に仕立て上げているが、 でも、「それじゃあ、子供はともかく、 (理系)オヤジは騙せないぜぇ」みたいな。 (「なら、オヤジには読んでもらわなくていいわ」……すんません。) 一番の難点は、吸血鬼達の代謝系が、 「生物学的に有り得ない」程の効率を持っている事。 この本によれば、吸血鬼は週一回程度動物の血液を摂取すれば、 「無酸素」で(吸血鬼は呼吸をしなくても大丈夫らしい)、 人間の何倍ものパワーを発揮できる(例えば、人を背負って 5 マイルを数分で走れる……)。 そんな事は生理学的に有り得ないだろう。だって、一個のブドウ糖分子から、 無酸素呼吸(吸血鬼)だと ATP が 2 個しか作れないのに、 有酸素呼吸(ヒト)だと 38 個もできるんだから(高校生物学)。 要は、呼吸しない吸血鬼は、ヒトより 20 倍大食いか、20 倍ノロいはずである、という事。 いや、それとも、吸血鬼はもうそんな真核生物以来のメカニズムは卒業している? でも、有酸素呼吸する動物が食物からエネルギーを取り出す効率は 40% に達しているから、 たとえ吸血鬼が何か奇跡的な生化学的メカニズムを獲得しているとしても、 ヒトの何倍もの効率を得る事は物理学的に不可能……

なあんて事が面白いかどうかにはあまり関係無いのはオヤジも先刻承知。 というか、この辺は「荒唐無稽」でも、 ハイティーンのお嬢さん達に受けそうな要素を全部備えていて、 なので、ミリオンセラーになるのも頷ける。アビルノの気味が有って、 運動音痴で、文学少女で、デートした事も無かった女の子が、 転学した途端に急に持て始める。 (このあたりで既に、(日本の)少女漫画の王道を行ってるな、という感じ。) そこで、凄いイケメンでかつスーパーマンのような男の子に恋するんだけど、 何とその相手も実は主人公にぞっこんだった。 しかし、二人の間には深い溝(だって種[人種じゃなくて]が違う)が有るんだけど、何とかそれを乗り越えて…… なーんか、ベタでやってられねぇ。 まあ、その相手が吸血鬼だった、というのがかろうじてヒネリなんだけど、 それだって、もう「ありがち」って言っても良いくらい、どこかで読んだ記憶が。

なんて悪口ばっかり言っているけど、 本当はこのオヤジにもとっても面白かった。おかげで二度も三度も読んでしまった。 Audio Book に至っては何回聞いたか解らない程。 何がそんなに良かったのか、ちょっと説明し難いが、敢えて挙げるなら、 主人公 (Bella) の性格とセリフだろうか。 「セイラー服と機関銃」もしくは "Harry Potter" のヒロイン達に共通する何か、としか言えないが。まあ敢えていうなら、 「自分の事はそっちのけで人の心配ばかりしている」 「自分が人に慕われたり守られたりする値打ちは無いと思っている」等々。 でも、「(死ぬことができない吸血鬼と)ずっと一緒に居たいから、 私も吸血鬼にして」と言うに至ると、「ちょっと待て」と言いたくなる。 恋は盲目とは言え、あの聡明かつ勇敢な少女はどこへ行ったんだ?みたいな……

ヒーロー (Edward Cullen) の方もとても興味深い。上記の生物学的な「有り得ねぇ」はともかく、 八十年間も十七歳として生きてきて、とっても退屈しているのではないか (未だに高校に通って、何十回目かの授業を受けている)、とか、 八十年の人生で何故今初恋なのか、とか。そもそも、彼女に魅かれ始めたきっかけが、 その血を飲みたい!という強烈な渇きというか「食欲」だったらしいが、 それが「愛」(もしくは「性欲」)に変っていくものだろうか。 吸血鬼さん達の心理も(ホルモン分泌に関する)生理も、 勿論著者の創作になるものであるが、とっても危ういけど、その分とっても面白い。 でも、ファーストキスがこんなに大変なんだったら、この先どうなるんだろう、 と要らぬ心配もしたくなる。(あ、次作に誘導する策略か……)

Audio Book は、iTunes store で売っていた MP3 版。 ちょっと読むのが速過ぎる嫌いは有るが、慣れてくると良く解るし、 セリフがとても臨場感が有って「うまい!」と思う。 (← 勿論このあたりはあんまり信用してもらっても困るが。) ともかく原文に忠実ではある。

が、映画の方は、ちょっと期待外れ。 原作に「天使みたいだ」とか「神々しい」とあるヒーローがその原因。 まあ、そんなに、完璧な美男のスーパーマン(のキャスト)を見付けるのは難しいだろうし、 期待する方が無理なんだけど、そのヒーローが初めて出てくるシーンでは、 本当にガッカリしてしまった。(自分がこんなに面食いだとは思わなかった:-)


渡部 昇一「知的生活の方法」講談社現代新書 1976

1/17/09 (Sat) **---

本書の著者である渡部昇一上智大名誉教授は、 件のアパの懸賞論文の審査委員長であったが、 その役割は私の中では今一すっきり理解できていなかった。 例えば、最初からグルだったのか? もしそうならば、何で最初から件の論文を「最優秀」に推さなかったのか? などが、どうもしっくり来ないのである。 しかし、最近田母神氏との共著(「日本は侵略国家ではない!」) をお出しになったところを見ると、疑問の前半の答は明白で、 「もともとグルであった(デキレースの胴元の一人だった、という意味)」 という事だろう。 後半は、やっぱりようわからんが、 きっと審査委員長殿がチョンボでもしたのだろう、くらいに思っていた。

が、昨日(御座なりで申し訳ない)、もっと良い理論を思いついた。

  1. 懸賞論文が田母神論文を選ぶための茶番である事は(どっちが言い出したかは別にして) お二人の間では共通の了解。(アパ代表が渡部さんに「覆面審査で、 田母神論文に最高点をつけて下さいね、お願いしますよ。」)

  2. かの論文、元々渡部さんの陰謀史観を焼き直したようなものなので、 アパ会長様は「まちがっても、田母神論文を他と取り違える筈はなかろう」 と思い、自分だけが知っていた論文番号を彼に教えてなかった。

  3. しかし、実際は渡部先生、物の見事に外してしまう:-) (他の人の作品に最高点を付けてしまった。)

  4. しかも、アパ代表がそれに気がついた時には、その結果は全審査員に FAX されていた。(このままでは、田母神論文は最終選考に残らない……。)

  5. アパ代表は慌てて、 渡部さんから委員長としての実質的な権限を取り上げてしまい、 自ら審査会場に乗り込み、強引な引き回しをやる。(最終審査に代表が首を突っ 込む事自体が「予定外」だったに違いない。)

  6. 自身の失態と代表の剣幕に呆然自失状態の渡部さんは、 代表のこの傍若無人を咎めるどころではない。 (で、メディアとのインタビューでのあの「私はなーんも解りません」の受け答えになる。)

  7. 渡部さんとしては、アパ代表に含むものを持つようになるが、 WiLL の記事とか、共著の方は既に走り始めていたので、そのまま乗っかっておく。
おー、我ながら鋭い推理である。何もかもがピタリと収まるではないか。 2 セントくらい賭けても良いような気がしてきた。(WiLL の記事が出た時点で、思いつくべき推理であったかも。)

それはそうと、この正月、帰省している間に、読む本を切らせてしまい、 自分の大学生くらいまでの本を置いてある本箱を漁っていたら、 渡部さんの「知的生活の方法」が目に止まった。 触るのが躊躇われるくらい埃まみれの状態であったが、 読んだのがかれこれ 30 年前なんだから無理も無い。 (そう言えば、一緒に阿川佐和子・檀ふみの「ああ言えばこう食う」も見つかった。 どちらも「期せずして」だった。正月早々縁起が良い。)

何を隠そう、渡部さん、当時は私の Personal Hero だったのである。 実際、本書に感化されて、「半七捕物帳」は今だに、私の愛読書の一つであるし、 Gissing の「ヘンリ・ライクロフトの私記」(平井正穂訳、岩波文庫) には今も傾倒している。 実際「ヘンリ・ライクロフト」は、なんだか鬼気迫るものが有り、 これを紹介してくれただけでも、本書の値打ちが有ったようなものだ。 なのに、著者ご本人は何を思ったか、田中角栄裁判に容喙して、 立花隆さんにこてんぱんにやられて(「幕間のピエロ」 と虚仮にされて)、私の Personal Hero の座から滑り落ちてしまった。「もう終ったな」 とさえ思っていたのだが、どっこい、なかなかお元気で、 上述のような「事件」にまた顔を出しておられる。 というか、むしろ、小林よしのりさんや、田母神元空将の「精神的支柱」というか、 一連の「傾向」の黒幕もしくは中心人物のようだ。 なんで、こうなってしまうのか、 これは再読せずばなるまい。

で、読み返してみたけど、今となってはさ程感心する程のものではないなぁ。 渡部さんの貧乏学生時代のエピソードには、最初に読んだ時感動したし、 今でもなかなか「来る」ものがあるが、 同時に今の私には自慢話に偏りすぎではとも思える。 何より「なんだかなぁ」と思うのは、 本を買い続け、読み続ける事を礼賛する一方で、 どんな本を読むべきかについてはなおざりにされている事。 もっと言うなら、「知的生活」を志す人が一生をかけて追及すべき価値は何か、 がちっとも明らかにされていない。 その一方で、ワインとかチーズとか、 そんな取って付けたような蘊蓄を傾けるから、 何だか「ハウツー本」のように思えてくる。 (「……の方法」なんだから、あたり前だ、と言われればそれまでだが……)

それでも、本書の主張するところの中には今でも納得できるものもある。 オヤジになると読むのもちょっと「こっぱずかしい」ような 「書生論」も含めて、私には十分に訴求するのである(私は書生論大好き!)。 しかし問題は、ご本人がこれらを全部実行してきたにもかかわらず、 晩年になって「知的生活」(の目標)とは程遠い生活をしていらっしゃる事。 「ヘンリ・ライクロフト」が明確に指し示し、 本書が示唆しているところに従えば、 晩年は「浮世の喧騒を離れ、 蔵書の中の気に入った本だけ(時にはとり寄せた新刊書も)に読み耽る生活」 が理想のはずなのに、なんだか現代史や経済学等という生臭い話を書き物にし、 また講演して歩いているんだとか。 こんなもんが「知的生活」(もしくはその成れの果て)なんですか、渡部先生。 私は本当に「ヘンリ・ライクロフト」のような晩年を送りたいと思っているから、 現在の先生の「あり方」は、かつての本書への心酔者への「裏切り」に思えます。

もっと有り体に言っちゃうと、 渡部先生もはや「知識人」としての矜持を放り出して、お手軽にかついでくれる、 もしくは不見転で本を買ってくれる「グループ」に阿っているような気がする。 (「世間」ではなく「小さなグループ」に阿るんだから、 曲学阿世をさらに矮小化した、曲学阿偶(愚?)というべきか。) いや、阿ているのではない、率いているのだ、と仰るかも知れませんが、 それにしても、先生を奉る小林よしのりさんも、田母神元空将もレベルが低過ぎ。 この体たらくを、渡部さんが心酔されていた故佐藤順太先生は何と仰いますかねぇ。 「お前なんか破門だ!」との一喝を免れたとしても、 「(私の生活の)表面だけを真似してもいかんだろう」とか 「弟子を選びなさい。選べないんだったら、もっときちんと指導しなさい」 はたまた「専門外の事は、もうちょっとよく考えてから発言してはどうか」 等と仰るのではないかと愚考致します。

いずれにせよ、渡部先生には、せめてこの本を書いた頃(30 年前)の「『知的生活』の実践者」としての真摯さを取り戻して、 晩節を全うして頂きたいと切に願うものです。


斎藤 美奈子「文章読本さん江」筑摩書房、2002 年

9/13/08 (Sat) *****
面白い!!正に「巻を措く能はず」…… わざわざ日本から持つて来てゐながら、どうして今まで手に取らなかつたのか、 不思議な気がする程。 とにかく無茶苦茶面白い。それは「全巻これ悪口」だから? いや、それだけではなくて、その悪口が的を射てるからに違ひない。 でもまあ、「文章読本」の著者達に少々厳しすぎ、の感もある。 特に巻頭の「文章読本御三家」および「新御三家」への批判。 後半が論理的なので、 余計、前半が著者の「怨念」に曇らされてゐるやうな気がする。 例へば、私にはそこで槍玉に挙がつてゐる「読本」の皆が皆、 斎藤さんの仰る程「上機嫌」だとは思へないし、 上機嫌であれ不機嫌であれ、多少ボルテージが上つてゐる方が、 読む方も楽しいのではなからうか。(あ、さうか、 ご自分もわざとボルテージを上げてみせてゐるんだ、きっと。)

思ふに、著者の斎藤さんは、(御自分で言ふライター等の) 「文章のプロ(レタリアート)」出身で、 小説家やジャーナリスト達からなる「文章エスタブリッシュメント」 に相当の反感を持ってゐるのではないか? だからかなあ、それ以降展開される「文章階級闘争史観」 は迫力が有つて面白い。 面白すぎて(または真相を暴きすぎて)、 「文章支配階級」の方々に「危険思想」とか「過激派」 と見做されるのではないかと心配になるぞ。

また、徹底的に「読本」をおちよくる事で、この本自身が、 また一つの(優れた)「文章読本」になってゐるやうに思ふ。(大)昔の話だが、 B. W. Kernighan さんは、その著書の中で、 ネタにするプログラミングの例文を既存のプログラミングの教科書(複数)の模範例から取つて来て、 それらのバグを事もなげに指摘して直してみせる、といふ事をやってゐた。 私などは「上には上が有るもんだ」と非常に感心したものであつたが、 本書にも、これと同じやうな「凄さ」を感じる。

ともあれ、「文章読本」であるからには「例文」が全て。 この本の中で、私が「ぶつ飛んだ」例文を幾つか上げてみる。

(保科浩一の「棒引きかなづかい」)
一体、禁酒禁煙とゆーことわできるが、節酒節煙わ出来ないのとおなじで漢字の 節減わどうも六かしい。これで、従来の障害お、一洗しよーとゆーことわ、国語 教育百年の大計でない。単に過渡時代における一時の方便に過ぎないものである。 真に国語大計おおもーなら、漢字わ全く廃止して、しまわなければならん。

斎藤さん、これにコメントして曰く

採用寸前までいった「棒引きかなづかい」わ、教育界の期待をよそに、 保守的な貴族院議員らのもーれつな反対にあって最終的にわ流れてしまい……中略…… もしこの案がめでたく採用されていたら、 女子高生の交換日記のよーなこーゆー標記でむずかしー論文わもちろん、 うつくしー詩さえ書かれるよーになっていただろー。 それもよかったなーとゆーふーにおもー。 こーしてみると文章の原則なんてゆーものわ、どこえころぶかわかりやしない、 たいそー恣意的なものなのである。

これが、採用寸前まで行つたといふのが凄いね。 (斎藤さんがこの假名遣ひをするのは、ここでだけ。勿論。) それにしても、斎藤さん、「それもよかったなー」なんて冗談ですよね。 私はこれに慣れる事はできないやうな気がする。 とはいふものの、小学校からこれだけを教はつてきたら、 慣れるも慣れないも無いだらうが。さう言へば、旧假名にこだわる方々も、 新仮名(に満足してゐる人達)に対してこんな風に感じてゐるのかな (「変なものに慣らされやがって……」みたいな)。 でも、これに比べれば、新仮名使ひは、まだ歴史的假名遣ひの香りを残してゐて、 萩野先生あたりに誉めてもらつても良いくらゐのものである。 等といふ冗談はともかく、意味を伝へるといふ言葉本来の機能に於いて、 新仮名使ひの方がはっきり優れている。 (斎藤さんでさへ「期待およそに」であるべきところを間違へているのは、 この「棒引きかな」にはかなり無理が有る、と云ふ事だらう。) では、新仮名使ひと旧假名遣ひがどうかと云ふと、「(これに比べたら) あまり差はない」と私は思ふ。

次は何と日本国憲法が……。第十一条です。

国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。 この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、 現在及び将来の国民に与へられる。

を「女子高校生語」に翻訳すると

うちら日本人はさるじゃないし、人間だし、人権とかあって当り前って感じ。 それってー、うちらが持っててマジ普通のものだよね? それはなくなったらたるいし、ちょーえーきゅーの権利として今は当然、 今後も余裕。ってゆーか、人権ってなに?

がははは、面白い!! 特に最後の「ってゆーか、人権ってなに?」が良い!! 本当に脱帽(脱力)する。 (でも、こんなに歯切れ良かつたか? 文末の「し」はいつも「しぃ」や「しー」になるんだよね、確か。 最近女子高校生の会話を生で聞ひた事が無いので、よく解らぬが。) 憲法の原文は言ふまでもなく(正字)正假名であるが、こんな風にやられちまふと、 新仮名がどうのかうのと言ってるのがアホらしくなつて来ませんか、 萩野先生。(そもそも、日本国憲法の場合、 他の条文も含めて新仮名との差が出る箇所が殆んど無いんですね、 改めて読んでみると。 それと、ウェブで読める条文は殆んど全部が新字になってゐる。 ケシカラン:-p) 私は、どちらかといふと、荻野先生の言ひ分より、 「要は中身よ」とおつしやる斎藤さんに与するものであるが、それでも、 日本国憲法の条文がこんな風になつてしまつたら、マジたるいしー、あ、いや、 誠に遺憾である。是非、今のままにしておいて欲しいと切に願うものである。 (←「ネタにマジレス」つてやつですね?)

少し話は逸れるが、本書は(成行き上?)表記法の変遷にも触れてゐて、 これがまた、面白くて説得力が有る(上記の「棒引きかなずかい」もその一部。) いづれの表記法も「どっちもどっち」「必然性はない」と突き離してゐる分、 より客観性が有るやうに思へる。 で、この「短い歴史」を読んで、私は(中途半端な) 新字・新仮名がやはり一番良い(といふか、 「このあたりが丁度良い」)との確信を深めたのであつた。 (ちなみに、私は節酒も節煙も可能な性質である。) 萩野先生のお説も力が入つてゐるけど、牽強付会の嫌ひが有つて、 読み返してみると、「よく言ふよ」がいくつも有る。 (さう言へば、萩野先生の文章読本「名文と悪文」も本書の中で槍玉に挙がつてゐて、 けつこう手厳しくやられてをります (p.79)。力入り過ぎ?)


Paperback: Ernest Hemingway, The Old Man and the Sea, Scribner, 2003

4/5/08 (Sat) *****

Audio CD: (Narrated by) Donal Sutherland, The Old Man and the Sea, Simon & Shuster Audio, 2008

4/5/08 (Sat) ****-

文庫: 福田 恆存 訳「老人と海」新潮文庫、1966 年

4/5/08 (Sat) **---

DVD-ROM: (Directed by) Jhon Sturges, The Old Man and the Sea, Warner Home Video, 2000

4/5/08 (Sat) ****-

私の親父は漁師である―この春廃業してしまったが。 で、当然ながら中学生までの最もお気に入りの「遊び」は釣りだった。 川や池でハヤとかフナを狙った事も有ったし、防波堤でチヌやメバル、 また投げ釣りで、カレイやメゴチを釣った。回数で言うと、 この投げ釣りが一番多いかも知れない。 しかし、「思い入れ」という事で一番大きかったのは、 小舟を漕ぎ出してのシロギス釣りやイイダコ釣りだったような気がする。 しかしこれ、費用対効果が甚だ良くない。 漁船と岸の間を行き来するのに使う「伝馬船」を親父に借りるのだけど、 もともとこれは長距離を行くようにはできてなくて、押し櫓(艫櫓)を漕いで、 まっすぐ進めるのも大変、というシロモノ。 要するに、港の外へ出て帰ってくるだけでも半日仕事、という事で、 体力と何より時間がたっぷり有る中学生だからできたんだろうと思う。 (しかし、釣果はいつも「今一」だった。)

高校生になって「老人と海」と出あった。初めて英語で読み通した本でもある。 だから、「どでかいマーリン」以外の事をどれだけ理解していたか怪しいものだが、 それでも、 こういう背景が有るところで、こんな本を読むと、これはもう大変。 すっかり逆上せあがって、 「いつか絶対マーリンを釣るんだ!」と譫言のように繰り返すようになってしまった。 なにしろ、 (自分が夢中になって追い回していた)シロギスくらいのサイズの鰯をエサにして、 カツオやマグロを釣り、さらにそれをエサにして、18 フィート(5.4 m)くらいもあるカジキマグロを釣り上げる、という話なんだから。

しかし現実は厳しく、その後釣りに出かけた事は片手で数えられるくらいしかない。 そのうちの一回は、バハマ諸島で trolling という、実際にマーリンがかかる事も夢ではない、という釣りだったが、 大き目のサバを釣っただけで終った。1 m あまりもある魚(船長は Kingfish だと言っていた)を掛けたが、 船に引き上げる時ワイヤの鉤素が切れて逃げられてしまった。 普通ワイヤが切れるはずはないのだが。(古くなって錆びていたのか? しかもごぼう抜きなどしないで、ギャフを使えば良かったのに。) それにしても、リールを巻くのに苦労するという最初で最後の体験ができた。

San Diego に来て、一度、同僚と乗合の釣り船で出かけた事がある。 エサはなんと生きたイワシである。十分食べられる程大きい。 「あ、『老人と海』みたいだ」と変なところで感動したが、釣果もまずまず。50 cm くらいもあるカマスや、(もうちょっと短かい)サンドバスが何尾かづつ釣れた。 しかし、同行した同僚(初心者)は、私よりそれらを多く釣り、 おまけに、十分ブリと言えるサイズの Yellow Tail を釣り上げた。惨敗である……情無い。いつか復讐戦を、と思いつつ、 もう一年以上過ぎてしまった。

あ、いや、小説の話でした。4 種類のメディアをとりまぜての体験は、勿論結構な時間的な投資だった。 事のおこりは、iTunes Store で、その Audio Books を見つけた事。 次いで、テキストを買い、買ってあった DVD の映画を改めて見、最後に翻訳の文庫本を買った。

Audio Books の朗読は、とても早口で、私には聞き取り難い事があるが、 それを除けば、よくできていると思う。 テキストとの違いは、今のところ四箇所くらいしか見つかっていない (p.34, p.60, p.83, p.84。但し、三つ目のはテキストの方の誤植だと思う)。

繰り返し読んでも(というより、実は繰り返し聞いた、という方が当っているのだが)、 飽きない。やはり名作である。 とても感動したが、高校生の自分とは、かなり違う形の感動だと思う。 より深くなったかどうかは分らないが、とても違っているのは間違いない。 第一、今やマーリンを釣りたいと思う事自体に後ろめたさを感じる。 (たまたま本書の読了直後に、「アラスカ沖でマーリンを大釣り」 なんてテレビ番組を見たが、「羨しい」というより「野蛮でアホな事やってるなぁ」 と思ってしまった。)勿論、他にも感じるところは沢山あるが、言ってしまえば、 昔のように素直に「サンチャゴ爺さん格好いいなぁ」とは思えず、 むしろ「悲しいなぁ」とか「寂しいなぁ」と……。 こんなマッチョ礼賛の権化みたいな話を書いたヘミングウェイが、 その後自殺する事になるという事をうっすら納得できた、とも言える。

ノーベル賞を受けた作品ともなると、色々解説や批評もあるようで、中でも Wikipedia のは秀逸だと思う。なので、私がどう感じたか、 等という他愛もない話を長々と書くのも詮ない事であるので、 読み直してみて、改めて「へぇーっ」と思った事をいくつか挙げる。

映画は、とても格調高く始まる。 そう思ったのは多分にナレーションが、 小説そのままの文章だったりするからも知れない。 ふーむ、こういうのもなかなか良いな。 映画の常で、話がかなり端折られているが、原作の香りを多く残す名作だと思う。 が、ちょっと「少年」が幼なすぎるような気がした。 あんな幼い子が、(「老人」に対する)あんな心遺いをできるものだろうか。 そんな子供にビールを飲ませるのはまずい、と思ったのか、少年が「ビール 2本」って注文しているのに、店のマスターは少年にコーラを渡していた……:-) 第一、小説では彼の年齢で既に大リーガーだった人に言及している。 なので、少なくとも 18 才くらいの若者に違いない。

もう一つ気になったのは、 格闘するマーリンから老人のとは違う別の釣り糸が出ているのがはっきり見えている事。 きっと、trolling で釣り上げるシーンを流用したと思うのだが、もうちょっと何とかならなかったのかなぁ。 あと、引き寄せた後のマーリンは作り物だったけど、 これがちょっといかにもお粗末だった。 (大きさをちょっとごまかして)実物で撮る訳にはいかなかったのかな。

翻訳は「いまいち」だった。 成田空港の本屋で偶然見つけた時、 どうしても分らない個所をカンニングしようと思いついて買ったのだが、 結局あまり参考にならなかった。 むしろ、かなり「しょぼい」訳に思える。

原文: But after forty days without a fish the boy's parents has told him that the old man was now defintely and finally salao, which is the worst form of unlukcy, and ...

福田(恆存)訳: しかし一匹も釣れない日が四十日も続くと、少年の両親は、 もう老人がすっかりサラオになってしまったのだと言った。 サラオとはスペイン語で最悪の事態を意味する言葉だ。

"the worst form of unlucky" と「最悪の事態」ではだいぶ違うような気がする。

原文: ... the coiled lines or the gaff and harpoon ...

福田訳: …… 巻綱や魚鉤(やす)や銛(もり)を……

釣り糸を巻いたものを「巻綱」というかねぇ。あと、魚鉤(うおかぎ)は gaff だろうけど、(そのルビの)「やす」は、また違う漁具です。

原文: I can remember the tail slapping and banging and the thwart breaking and the noise of the clubbing. I can remember you throwing me into the bow where the wet coiled lines were and feeling the whole boat shiver and the noise of you clubbing him like chopping a tree down and the sweet blood smell all over me.

福田訳: うん、覚えている。魚のやつ、尻尾でものすごくあばれまわってさ、 船の横木を折っちゃったろう。魚を棍棒でぶんなぐる音を覚えているよ。 お爺さん、ぼくをへさきにつきとばしたじゃないか。 そこにぬれた巻綱があったっけ。船がぐらぐら揺れていたね。 お爺さんは、まるで木樵が鉈で樹を切るみたいに魚をぶんなぐっていた。 棍棒の音が聞こえるようだ。血の匂いがいっぱいだったね。

「尻尾であばれる」というのも、ちょっと変だけど、船の横木って何だ? それと、少年を「突き飛ばした」のじゃなくて、 ぬれた釣り糸を巻いたものの上に(それをめがけて、そっと)投げたんじゃないかな。 また、"Shiver" を「ぐらぐら揺れる」としたんじゃ、ちょっと迫力が足りないような気がする。 (小舟はいつだってグラグラしている。) "Chop down" は樹を切り倒す事だから、「鉈」では無理ではないだろうか。

原文: "If you were my boy I'd take you out and gamble," he said.

福田訳: 「もしお前がおれの子だったら、もう一度連れてって、一か八かやってみるんだが」 と老人はいった。

私は、本当に(一人前の男として)ギャンブルに連れていくんだと思っていた。 しかし、これは福田訳の方が当っていると思えてきた。 映画でも、この部分のセリフは "gamble" を削っているし。

原文: He was too simple to wonder when he had attained humility. But he knew he had attained it and he knew it was not disgraceful and it carried no loss of true pride.

福田訳: かれは単純な人間だったので、 いつから自分はこうも人に気がねするようになったかなどと考えはしない。 しかし、いつのまにか人に気がねするようになったとおもう。 同時に、それはなにも不名誉なことではない、 本当の誇りをいささかも傷つけはしないと考えていた。

実は、この部分がどうもよく分らなくて、訳本を買ったようなものなのだが、 福田訳を読んでも、やっぱりよく分らん。"Attain humility" がどうして「人に気兼ねする」になるんだろうか? 「へりくだる」とか「謙譲の美徳を身につける」くらの意味なんだろうけど、 これはこれで、しっくり来ないなぁ。

原文: "Tomorrow is going to be a good day with this current," he said.

福田訳: 「潮の調子がこのぶんだと、あしたはいい天気になるぞ」と老人は言った。

潮流を見て翌日の天気を予想する?普通そんな事はできないと思うなぁ。 日本語で言う「いい日になりそうだ」(ツキがある、魚が獲れる)の方が近いような気がする。

原文: ... along with the club that was used to subdue the big fish when they were brought alongside.

福田訳: 棍棒は、大魚を舷側に横づけにして引っ張ってくるときなど、 それがあばれるのをしずめるのに使うのだった。

素直に読めば「舷側にひきよせた大魚を弱らせるのに使うのだった」という意味だけど、 福田訳は、大部ズレた訳になっている。

原文: Once there had been a tinted photograph of his wife on the wall but he had taken it down because it made him too lonely to see it and ...

福田訳: かつてはその壁に、故人のぼやけた写真が掛っていたが、 老人はそれをとりはずしてしまった。 見るにたえぬ寂寥の想いに襲われるのを恐れたからだ。

"A tinted photograph" は(古くなって)「変色した写真」の方が近いと思う。 また、「見るにたえぬ寂寥の想いに襲われる」は、訳としてだけでなく、 日本語としてもかなりおかしいのでは?

最初のたった六・七ページで、こんなにひっかかるところが有った。 しかも、こんな「なんだかなぁ」が全編を通じて同じくらいのペースで出てくる。 福田さんが海や漁に疎いからかな、とも最初は思ったが、どうもそれだけでも無いようだ。 かなりがっかり。 それどころか、「この人、あんまり英語を知らないのでは?」 などと言う畏れ多い疑惑も湧いてきたりして。

旧字旧仮名派の誰もが、福田さんの「私の國語教室」を引くので、 (私は読んだ事がないが)いささか畏敬の念を持っていた。 概して旧仮名派の議論はあまり説得力が無いと思えるが、その中で、 氏の「國語教室」だけはしっかりした主張が有るに違いない、と。 しかし、本業の翻訳がこれでは、ちょっと買い被りすぎだったようだ。 少くとも、「國語教室」や氏のシェイクスピアの翻訳を是非とも読んでみたい、 という気持は薄れてきてしまった。 (ひょっとして、「老人と海」は手抜きをしたという事かも知れない…… しかし、二回も改訳しているらしいので、そんなわけも無いか。)


新書: 萩野 貞樹「旧かなづかひで書く日本語」幻冬舎新書、2007 年

12/1/07 (Sat) ****-

いやあ、面白かつた。 説得的でかつ面白いという点では、漢字の旧字體(正字)を推奨する 「漢字と日本人」(高島 俊男 著)に匹敵する。 いや、それ以上かも。あんまり説得力があるものだから、 感化されやすい私などは、すぐに旧(歴史的)仮名遣ひを使つてみようと思つてしまつた程。 で、この節だけでなく、なんとローマ字が氾濫する「おたく日記」まで、 歴史的假名遣ひで書いてみた:-p

やつてみたら、思つたより易しい(←既に著者の術中にはまつてゐる……)

要するに、環境としては既にほぼ完璧なものが有る訳で、 成程、著者の仰る通り、思ひ立つたその日から遣ひ始める事ができた。 (旧假名遣ひで文章を書くなら Emacs + SKK に限る:-p 言ひ遅れましたが、SKK とは Emacs の上で動く「かな漢字変換」モジュールです。)

これに加へて、筆者の仰る以下の諸点

には、全面的に納得・賛成。

でも、では旧假名を実際に自分で使ひ始めるか、となると、 著者様には申し訳ないが、やはり遠慮させていただきたい。

「新假名遣ひだつて、完全には発音に即してゐない」といふ論は、 裏を返せば、新假名遣ひもさうする事で、 旧假名遣ひの機能性の一部を継承してゐるとも云へる(「は」・「を」・「へ」、 「言う」を「いう」等)。 これらだけを残すのは確かに中途半端だが、 文章の意味や構造を解り易くすると云ふ目的に敵ふ、絶妙な中途半端さだと思ふ。

旧假名遣ひの「論理の一貫性とその美しさ」は認めざるを得ないが、 多分それは「は行動詞」の活用に関するあたりだけの事のようにも思へる。 なので、「は行動詞」と「ゐる」だけ(今の私のレベル)、からさらに進めて、 首尾一貫した旧假名遣ひにしようと思ふと、 古い発音(およびそれに結びついた文法)を知らない者にとつては、 かなり勉強もしくは「丸暗記」が必要になる(「じ」⇔「ぢ」、「え」⇔「ゑ」、 「い」⇔「ゐ」等々)。これらの使ひ分けを覚へるための歌も紹介されてゐるが、 これは取りも直さず、既に江戸時代から、 これらは間違はれる事が多く、それを避けるためには丸暗記する必要が有つた、と言ふ事だらう。

無粋な私などは、何についてもすぐに「さうする事で何か嬉しい事が有るか」と思つてしまふが、 この場合にも、これらを暗記してまで旧假名遣ひを完全にする「メリット」は見出せない…… そもそも、話がこの辺りへ来ると、著者の萩野教授からして、 『「ゐ」「ゑ」を書くのは気持が良い』くらゐの事しか言つてないやうに思ふ。 確かに、私も最初は気持が良かつたが、そのうちに飽きてきた。 と言ふか、間違はないやうにいつも気をつけてゐるのが段々面倒臭くなつてきた。

要するに、普段現代語を読み書きしてゐる者が、旧假名遣ひを極めようとすると、 どうしても相当の訓練を避けて通れないやうな気がする。 もしくは、「書く時は常に文語で」くらゐの覚悟で文語を身につけて初めて、 旧假名遣ひの「美しさ」「心地良さ」が享受できるのかも知れない。 しかしそんな事は萩野教授には容易でも私には無理だらう。 だつたら、「極める」のは諦めて、「中途半端」ながら、 まあ間違つてないと思へる文章が楽に書ける新假名遣ひで良いぢやないか、と。 要するに「現状が丁度良い」。 何だか、漢字の旧字体(正字)の時と同じやうな、現状追認の結論になつてしまつた…… ここでもやはり私にはそれが「心地良い」のだと思ふ(初・中等教育の力恐るべし)。

さう言へば、筆者は漢字の新字体と常用漢字表による漢字制限にも苦言を呈してゐて 「これはいろいろと具合が悪いから、旧字体に戻さう」と仰る。 論拠は上の高島教授と殆んど同じである。 特に、ちゃんと独立した文字なのに、 別の漢字の新字体にされてしまつた漢字については、 挙げられてゐる例までが同じ(藝 ⇒ 芸 ⇔ 芸(ウン) 缺 ⇒ 欠 ⇔ 欠(ケン))。 しかし、高島教授のこの指摘を読んでからの三年間を改めて省みるに、 「芸亭(ウンテイ)」や「欠伸(ケンシン)」 等と言ふ言葉には一度も出合はなかつたやうに思ふ。 そもそも「欠伸」は普通「あくび」と読む(ルビを振る)のではなからうか。 しかし何より、旧字体は画数が多すぎて、例えばウェブ上ではとても読みづらい。 聲、體、讀、藝、龜 などは、私が常用する大きめの 18 point のフォントでも細部が良く見えない(両教授が仰る「美しいかどうか」以前の問題)。 と言ふ事で、漢字の字体についても、私にはやはり「現状が丁度良い(心地良い)」。

しかし、数日間、旧假名遣ひと遊んでみて、 「文語文法は意外にスマート」と思へるやうになり、 少しだけだが古文・文語に近づけたやうに思ふ。当たり前の事ながら、 「文語を書くには歴史的假名遣ひは良くできてゐるなあ」と。 一方、それとの比較から「口語を書くには新仮名使いって良くできてる!」 と今更ながら感心した。 微妙な「中途半端さ」と、それによつて達成した「単純さ」が素晴しい:-p 同時に、新假名遣ひを編み出し、その普及に努めた方々を偉いなと思ふやうになった。 恐らくは御自身達の中では旧假名遣ひに愛着が有つたに違ひないのに、 (おまけに福田恆存さんあたりに痛烈に非難・揶揄されながら) 何十年も後の世代に感謝されるやうな改革をなしとげた訳で、 想像力を兼ね備えた「信念の人達」であつたに違ひない。


Hardcover: Clive Cussler and Paul Kemprecos, The Navigator, Berkely, 2007

8/20/07 (Mon) ***--

The NUMA Files シリーズの最新刊。"Black Wind" で主人公が Dirk Pitt Jr. になったと思ったら、本作ではさらに別の主人公 (Kurt Austin) になっている! The NUMA Files シリーズの中の、さらに別のシリーズ? ここまで来ると、なんだかもう付いていけない、という感じがする。 などというグチはともかく、Kurt さんは、NUMA の Special Assignment Team の長という事で、Dirk Pitt 父子(基本的に調査・研究に従事している)より dirty (hot?) な仕事をメインにしているので、勢い、より派手なアクションに行きやすい……。 (それが狙いか?)

という事で、例によって、プロローグは意味深の上に面白いし、個々のエピソードもかなりの page turner である事は認める。3000 年以上前のフェニキアや□□□、現代のイラク、 建国間もない合衆国の他、中東の各地を転々とするプロットも、 なかなか壮大。でも、そのプロットが、大元のところで「何だかなぁ」になる。 "Black Wind" みたいに、産業界の大物が「(ある意味で)世界制覇」を狙うんだけど、 Solomon 王の末裔であるその人が、なんでそうしないといけないのか、 また、そうするために、なんで、Solomon 王が隠した○○を見つける必要があるのか今一納得できない。

"Black Wind" で、NUMA シリーズの良さを見直したと思ったけど、 この最新作はプロットの傷が気になって、さほどでもないか、という評価となった。


Hardcover: Clive Cussler, Black Wind, Berkely, 2004

7/21/07 (Sat) ****-

例によって、意味深なプロローグ。 その上、その冒頭が呉軍港の記述という事で、 思わず飛びついてしまったのですが、 ペーパーバックでは文字が小さいという贅沢な理由で、しばらくおあずけ、にしてました。 その後、ハードカバーをバーゲンで買って読み始める気になったけど、 実際に読み初めたのは、飛行機の上。で、当然ペーパーバックでした:-p。 後半分は、ハードカバーで読んだので、どちらも無駄ではなかったけど、 馬鹿な事をしているなぁ、とは思う。

で、久し振りの NUMA シリーズ。 ただ、以前読み耽った NUMA シリーズとは違って、主人公の Dirk Pitt は、あ の Dirk Pitt ではなく、その息子。 Sandecker 提督はなんと副大統領となり、後(NUMA の長官職)を、 父親の Pitt が襲っている……云々云々、と時代は移っているのでした。

だのに、お話の印象は以前と殆んど同じ。それでも、やっぱりこっちの方が、Oregon Files シリーズより断然面白いと思う。 主人公達が、あまり強力に武装していない方が痛快、という事かも。 (知恵と勇気で、強力な敵をやっつける、みたいな。) それと、Giordino (もう爺さんのはず)と Dirk Pitt 父の「かけあい」もなんだかとっても懐しい。

それでも、物語の中に Cussler さん自身が出てきたり、最後の方で、Dirk Pitt 父が、主人公(同息子)のお株を奪って、大活躍をするってのは、 どうなんですかねぇ。どっちも「必然性」に欠けるし、なんだか、 ちょっと興覚めしてしまうし、第一ややこしい。(もっと真面目にやれぇ、みたいな。)

あと、とあるロケットの海上発射を巡って、お話はクライマックスを迎えるんですが、 そもそもロケットを使う必然性が、今一良く解らず、ずっとひっかかってました。 勿論、私の代案(ヘリコプターを使う)より、ずっと盛り上る (お約束の「カウントダウン」が出てくる)し、NUMA の装備の出番も多い。 でも、それが透けて見えると、ちょっとなぁ、になります。

あと、挿絵のキャプション(?)で、イ-403 となるべきところが、イ-413 となっていたり(i-403 と書くと旧海軍の潜水艦も何だかお洒落ですね)、 全ての破壊工作を日本赤軍になすりつけようとしているはずなのに、 工作船の名前を「高麗」や「百斉」としたり、 漢河の河口付近の地理の想定がどうも実際と大幅に違ったり……。(下の Alexandria Link でもそうでしたが、こういう小説を読むには、Google Earth や Google Map が欠かせません。)

こう書いてくると結構「傷」は多いけど、Oregon Report より甘い評価になるのは、昔の誼から?それとも単純に面白いから? 次 Cussler さんを読むなら、やっぱり NUMA シリーズにしよう、と思う単純な私でした。


Hardcover: Steve Berry, The Alexandria Link, Ballantine, 2007

6/10/07 (Sun) ***--

Audio CD: Steve Berry, The Alexandria Link, Random House Audio, 2007 (Read by Scott Brick)

6/10/07 (Sun) ***--

「守備範囲を広げよう」計画:-) の一環で、初めての Steve Berry さんの小説。 で、結論から言うと、悪くはないけど、嵌る程でもない……

プロローグは良かった。実は、そこに魅かれて買ったようなもの。 設定や舞台装置も秀逸。 実存する組織や、史実を一部使っているという事も寄与しているのか、とても尤もらしくて、 あからさまな「あり得ねぇ」は無い。 でも、プロットの方は後で振り返って「あれ」と思うところが結構有る。要するに、 とても凄い page turner なんだけど、読後感が「素晴しい」とならない、という事。

"Da Vinci Code" では、キリスト教会の「有りえたかも知れない未来」が、主題というか、 「宝探しの宝」で、しかもそれは十分大騒ぎに値するもののように思えた。 教皇を頂点とする権威に正面から挑戦するものだったから。 本編では、旧訳聖書の原典の「イスラエルの存在基盤を脅かすかも知れない記述」 が、それにあたります。現在のイスラエルがそんなものは一顧だにしないかも、 という心配はありますが、私には重要な事に思えます。

が、主人公達を、その原典に駆り立てるためのプロットが、 あまりも凝りすぎていて、かつ不確定要素に依存しすぎていて、 「結果的にうまく行ったのが不思議」なくらい。 例えば、中東の危機をさらに煽りたい組織、 というかその手先が、最初に主人公の息子を誘拐するんだけども、 それを後であっさり返してしまう(というか、奪回を許す)。 身代金代りに、その原典にまつわる機密を追わせる、 というところまではまぁ分るけど、 どうして、息子を奪還した後も、その組織の思惑通りに主人公が「アレクサンドリア図書館」 の所在を熱心に探し続けるのか、どうしても納得できない。

CD の朗読は、もうお馴染になった、Scott Brick さん。 朗読そのものも良いけど、ちょっと感動したのはその編集というか構成。iTune で clipping するんだけど、そのタイトルが Intro, Prologue A, Prologue B, Chapter 1a, ... となっている。普通は、章なんか関係なく、CD のボリューム番号に、トラックに相当する suffix をつけただけのもの(1A, 1B 等)が多かったけど、やっと、PC で聞く事を考慮した Audio CD が出てきたか、と感慨も一入。しかし、一箇所タイトルが、Chapter 56b となるべきところが、55b になっていた。 単純なミスなんだろうけど、iTune の Play List の側ではややこしい事になる……


Hardcover: Thomas L. Friedman, The World is Flat, Farrar, Straus and Giroux, 2006

4/4/07 (Wed) *****

Audio CD: Thomas L. Friedman, The World is Flat, Audio Renaissance, 2006

4/4/07 (Wed) **---

この本、実はオリジナルと改訂版 2 冊持ってます。 オリジナル(2005 年版)の方は、何の予備知識もなしに本屋で気に入って買った(← 大当たり!ちょっと自慢)。 分量が多くて内容も重いので、本格的に読み始めるまでにちょっと勇気が要った。 で、やっと読みかけたあたりで、Audio Books を見つけたら、それは 2006 年版(新版)だった。 リスニングの勉強には、 「朗読がテキストとちょっとでも違ったらなかなか面倒」 と思い知っていたので、改訂版を買った。

ただ、そこまでして勉強しようと思った Audio CD だけど、使ってみると、かなり「なんだかなぁ」です。何より、CD の Track が全く本の内容の区切に対応していなくて、酷い時には段落の途中で CD の Track が変ったりします。 頭からずっと聞いていく人にはそれで問題ないんでしょうけど、 Text と睨めっこしようとしたら、これは大変。 また、文章そのものも、Text とかなり違っている所があります。 中には、パラグラフがそっくり抜けていたりもする。 朗読そのものはともかく、編集が酷いせいで (学習用)Audio CD としては、まあ、最低の部類。

しかし、本の方は凄い。なんせ 600 page になんなんとする大著。それにぎっしり情報が詰っている、という感じ。 しかも、殆んどすべてが、著者のオリジナルな体験やインタビューに基づいている。 なんか「聞いたような事を集めただけ]みたいな薄っぺらな雑誌記事や、Mail Magazine の記事と比べたら、彼我の「エネルギーギャップ」に暗然としてしまう程。 (「奴等は肉食ってるからなぁ」という友人 J 塚さんの得意の冗談を思い出します:-)) また事実関係もしっかりしているみたいだし。(IT 関連でも「危げない」のはさすが。) 大変勉強になりました。

それでも、今まで、「感想文」を書くのを億劫がっていたのは、 やはりどうも納得行かないところが有ったから。 というか、どうにも自分の中で整理がつかなかったから、かも。

筆者は単なる楽観主義者ではなくて、ちゃんと、インドのカースト制度の悲惨や、 Walmart の箆棒等々を認識しているようなのですが、それでも、 現行の「サプライチェイン」がもっと広がり (発展途上国がもっとそれに連なる事を許容し)、インドのコールセンターサービス を皮切りとする国際的 "Out Sourcing" がもっと普及すれば、そのような悲惨を含む殆んどの問題が解決する、 と主張しているように見えます。 しかし、私は「そうかなぁ」と思ってしまったのでした。

何より、今の合衆国のありようを、無条件に肯定してしまうところが、 どうも納得できない。確かに、Bush 大統領の内外での政策を厳しく批判している個所や、 公教育のあり方を論じている所もあるので、 「無条件に」というのは言いすぎとしても、 大元のところでは一番優れていると信じているようです。 私も、米国はかなりうまくやっている、と思うのですが、しかし、一方で、 完璧には程遠く、他人様に無理矢理押しつける程のものでも無かろう、とも思います。 その「欠陥」の最たるものは、拡大する経済格差や、 犯罪の増加などに象徴される「社会の二極化」でしょう。 米国人がこれを何とかせねばと思っているかどうか定かでありませんが、 私には大問題に思えます。 この問題をそのままにして、もしくはこのような問題を生む体制を前提にして、 「サプライチェイン」を世界中に張り巡らしたら、それはそのまま 「格差の輸出」(もしくは「スマートな搾取の拡大」)になるのではないか。 また、実際、そうなりつつ有るように思えます。

他にも「ひっかかる」ところはいっぱいありますが、 その一部は私の勝手な「反感」にすぎないみたいですし、「勉強になりました」 と脱帽する個所の方が圧倒的に多い。ので、いずれまた読み返したいと思います。


Hardcover: Michael Crichton, Next, HarperCollins, 2006

2/24/07 (Thu) ****-

Audio CD: Michael Crichton, Next, HarperAudio, 2006

2/24/07 (Thu) ****-

面白い!"The World Is Flat" をよみさしにしてこちらを読み始めたら、ついつい最後まで行ってしまった。 例によって導入部が良い。なんだかドキドキさせられて、読み進まずにはおれない。 それにしても、出てくるのは、ひどい人物ばかり。 特に医療やそれに関連する VC に携る人達が皆貪欲かつ職務にいい加減で、 「これが本当なら、米国(特にカリフォルニア?)に住むのは考えものかなぁ。 とりわけ病気になったり死んだりしたら嫌だな」と真剣に心配になる程。

それに(いつものように)とっても勉強になります。 今回は「遺伝子工学」が主題で、でも "Jurassic Park" みたいに箆棒な話ではなく、 遺伝子操作や遺伝子療法等のどっちかというと地味な(はずの)話。 で、大昔に聞いた事がある「遺伝子特許」なんて馬鹿げた話が、 米国では実際に進行していて、既に大金が動いている…。

でも、小説としてはどうなんでしょうね。何か構成に無理が有るような…。 "State of Fear" での 「○○問題の『講義』の合間に派手なアクションが挿入されている(だけ)」 の嫌いが(ちょっと薄まってはいますが)やはり有ります。 Crichton さん、それでも足りない!と思ったのか、巻末の "Author's Note" で、本書を書くにあたっての研究で得た結論を述べています。 曰く、"1. Stop patenting genes", "2. Establish clear guideline for the use of human tissues." 云々。 いずれの主張も至極尤もで、 むしろ、米国の現状がそうなってないのが箆棒な話、と思えるくらい。 でも、それはそれとして(主張は別に述べるのだから) 小説本体の構成や話題の方はもっと「自然な」というか「有りそうな」 話にした方が良かったのでは?と思います。

一番気になるのは、「意味のある会話ができる」 という事があまりにも簡単・単純な機能とされているらしい事。 実際には、これは知能の最も高級な部類の機能で、 自意識や認識能力等の他の高級機能を総動員する必要があり、 このような諸機能を全て備えるには、 物理的に大脳皮質の面積がある程度以上にならなければ不可能、 と聞いた事があります。なので、オウムが人と会話したり、 小学生に算数の指導をしたり、 折にふれて適切な歌詞や映画のセリフを引用したり、 なんてのはというのはとても有りそうにない事に思えます。 これがチンパンジーになると、 大脳皮質の面積が十分かどうかはもうちょっと微妙になりますが、 それでもやはり、 声帯の構造を変えるだけでなく、頭蓋をもっと大きくするなり、 大脳皮質を疊み込む方法を変えるなり、 とにかく皮質の面積を増やす変異が伴わないと、 小学生並の会話能力を持つには至らないのではないでしょうか。 (それにしてもこやつ、動詞の時制が苦手という設定になっていて、 "They hurted him" だなどと私と同じ間違いをするのがとっても癪に障る:-p)

今回もそうですが、Crichton さんの小説を読む時は、「"Jurassic Park" の感動をもう一度」といつも思っている(で、いつも裏切られる) のですが、話としては箆棒なこの小説になんでそんなに感心したのか、 ちょっと不思議な気がしてきました。暇が有ったら読み返してみよう…。

ところで、一緒に CD も買ったのですが、今回は MP-3 版も有ったのでそちらを試してみました。全巻が 2 枚の CD に収まっており、 クリッピングするために CD をとっかえひっかえしなくて良いので、 ともて具合が良い。(でも逆に iTune が自動認識して Music archive? にセーブしてくれる、とはならず、手動でコピーする必要が有った。) もちろんこれ普通の CD player では再生できませんが、MP-3 Player で聞く事の方が圧倒的に多いので、これもまあ良しとします。

朗読そのものは適度なスピードで(私の「適度な」は「ゆっくり目」 という事:-) しかも本文を少しも違えず読んでくれるし、 ほぼ各章ごとのファイルとなっているので、とても Good. 難点を敢えて挙げるならば、 会話の部分で話者の特徴を出そうという意欲が行きすぎるのか、 時々とっても変(slur が効きすぎ)になる事。 あと、新聞の記事を読むのに、なんだか馬鹿っぽい喋り方になる事も気になる。


Hardcover: Jack Higgins, The Whitehouse Connection, Berkley 1999

1/10/07 (Thu) ****-

Hardcover: Jack Higgins, Dark Justice, Berkley 2005

1/28/07 (Mon) ***--

Jack Higgins さんと言えば、勿論「鷲は舞い降りた」。 邦訳で読みましたが、これは面白かったですねぇ。(映画も良かった。) そのあと、「鷲は飛び立った」"Flight of Eagles" も確かに面白かった。 これらはいずれも第二次世界大戦を舞台にするものですが、 今回読んだ二冊は冷戦以後の世界が舞台です。Ken Follett さんは、第二次大戦("Jackdaws")から現代に舞台を移しても("White Out")結構面白かったので、Jack Higgins さんにも期待がかかります。

というのは後付けの理由で、本当は稲城の家で風邪で伏せっている時に、 たまたま手の届くところに "The Whitehouse Connection" が有ったのでした。 (タイトルが今一だったので、SD には持って来てなかった…。というか、 読みかけて途中で止めた "The President's Daughter" と混同していたのかも?) 寝っころがって本を読むのは結構疲れるし、 私の場合何故か腰が痛くなるので、 風邪には良くないのでしょうが、しかし、これが面白くて止められない。 自分の死期を悟った貴夫人(淑女?実際英国の Lady の称号を持っている)が、 息子の死の真相を知って復讐する、という(書いてしまったら「ありがち」な) 粗筋ですが、何故か引き込まれます。で、2 日と飛行機の中で読み終ってしまった。

それで気を良くして、SD に帰ってから、(何の偶然か)買い置きしてあった "Dark Justice" を読み始めたのでした。 しかし、今度はずっとベッドで本を読んでいるわけにはいかないので、 結構時間がかかってしまった。 そのせいか、ぐいぐい引き込まれるところまでは行かない。(面白かったけど。) この二冊目になって、これはどうも Dillon 達を主人公とするシリーズ物らしい、と気付く。それくらい、"The Whitehouse ..." では guest star の「淑女」が光っていたんですね。 で、続きものとわかると、なんだかなぁ、が徐々に膨れあがってきます。 例えば、どちらも最後は、夜中に軽飛行機で敵地に乗り込んで結着を着ける。 飛行機を不時着させるか、パラシュートを使うか、という違いはありますが、 良く似ている。で、この Dillon さんが滅法強い。というか滅茶苦茶強運なんですね。 ここで白けるか、(必殺仕置人でテーマが流れる場面みたいに)「待ってました」 と興奮するか、は人によるのでしょうが、私は「あーあ」と思いました。

それと、対テロリズム戦争?という事で、やたら超法規的な措置が取られます。 こちらが「独善的だぁ」と鼻白む前に、計算したように主人公達(特に Hannah Bernstein 警視)の葛藤が描かれるのですが、勿論結局はそれを容認してしまう。 でもこれはやっぱり無理があります。 「戦争なんだから手段を選ばない」と言ってしまうと IRA やアルカイダの「大義」と変るところが無い、という意味で。 特に、最後に悪人(「テロリスト」)達をみんなまとめて木ッ端微塵にしてしまったのは不味かった? これじゃあせっかくの Peace Process の精神を反古にしているだけでなく、自らがテロリストになってしまっている。 このあたり、Clive Cussler さんの The Oregon Files と通じるところがありますね。


Paperback: Clive Cussler and Jack Du Brul, Dark Watch, Berkley 2005

12/31/06 (Sun) ***--

Paperback: Clive Cussler and Jack Du Brul, Skelton Coast, Berkley 2006

1/9/07 (Wed) ***--

一時(大昔)Cussler さんの Dirk Pitt シリーズに凝った事がありましたが、 邦訳を読み尽した後、飽きてしまったこともあり、ころっと忘れていました。 なのに、また読み始めたきっかけは、Cussler さんが御子息と書いた "Black Wind"。冒頭の呉軍港の記述に何故か興味を引かれたのでした。 ちなみに、息子さんの名前は、Dirk Cussler。Dirk Pitt から取ったのか、はたまた、息子さんの名前から Dirk Pitt と名付けたのか…。(写真で見た限りでは、きっと前者でしょう。 息子さんがとても若く、彼が生まれたのは Dirk Pitt シリーズの開始より後にちがいない。)

ところでこの "Black Wind"、ペーパーバックで買ったは良いが、 文字が小さくて、ちょっと(かなり)老眼がかかった目にはつらい。 勿論努力すれば読めない事はないけど、 楽しみに寝っころがって読むのに、敢て努力するのも「なんだかなぁ」です。 なのでこのところ、何でもハードカバーで読みたい、と思うようになりました。 ところが、この二冊の Berkley のペーパーバックは、判型が大きい上に、 フォント他も大変見易くなっていて…。 要するに、内容ではなくて版組みで選んだ、という事ですな。 しかし、そんな「いい加減」な選び方でも、 運が良ければそれなりの本に行き当る事ができる…。 実際、これらはまた凄い Page Turner なんです。

迂闊にもこれらを買ってから判ったのですが、Dirk Pitt (NUMA) シリーズではなくて、The Oregon Files という新シリーズの最初の二冊なのでした。 何より、お話の「設定」が楽しい。The Oregon というのは、主人公達が乗り込む船の名前なんですが、 上辺は水先案内人や税関吏が「用が済んだら一刻も早く逃げ出したい」 と思うようなボロボロの貨物船なんですが、その実体は、 いざとなれば 40 ノットで航行でき、しかも 20 mm (?) ガトリング砲、 40 mm autocannon、 ホーミング魚雷、小型潜水艇、小型ヘリコプター、 無人偵察機等々の最新の兵装を備えた戦闘艦。 これが有れば「対テロリスト戦争」の面白い話が幾つも書けるなぁ、 が第一印象。要するに、そういう意図が透けて見える。

これだけだと、小沢さとるの「少年タイフーン」や「青の 6 号」 (なんで少年達が原子力空母や潜水艦に乗り込むの?みたいな)なんですが、 大人の読者相手には、お伽話にも若干のリアリティが必要、という事か、 この船は、私企業 Corporation の持ち物で、その会社は、 米国政府や別の私企業からの依頼をこなして、その船を維持している、 という事になっています。 でも、私にはむしろこちらの方が「お伽話」っぽいような気がします。 どんなビジネスモデルを提案して銀行さんを口説いたんだろ、 また、なんて言って造船所を納得させたんだろ、云々:-)。 そもそも、ホーミング魚雷がン億円、 作戦完了後に小型潜水艇を改修・修理したら、またン億円。 なのに一方、例えば日本企業からの依頼は、海賊船を一隻沈めたら一億円。 収支を考えていたら、恐くて(阿呆らしくて)戦争なんかやってられない。

それやこれや「ふと」湧いてくる疑問を忘れられたら、 確かにこれは面白いお話でしょうね。 でもねぇ、「明白な国際法違反だぁ」とか「海賊行為じゃん」 とかいう疑問の方はなかなかどっかへ行ってはくれません。 基本的に「テロリストを退治しているんだから OK」 と言いたいようだし、 また、それを補強するためか、敵役達は徹底して悪者に描かれている。 しかしつきつめれば要するに「勝てば官軍」の論理なわけで、 例えば逆に圧倒的な戦力を持つ相手(正規の海軍とか)に拿捕されたりすると、 これは弁解のしようのない「現代の海賊船」になってしまう…。

たかが小説、面白ければ良いようなもんですが、 あんまり一方的な言い分を聞かされると、 (特に今は)イラク戦争以降の米国の振舞いがダブってくるので、 なんだか鼻白む感じがしてしまいます。なんだか page turner を確かに楽しんだのに、後になってケチをつけている、 という気もしないではないですが、こっち(ケチ)もまた正直な感想です。


池田 晶子 「勝っても負けても」 新潮社 2005

9/3/06 (Sun) **---
9/17/06 (Sun): 補遺

私の中での哲学者株は、西尾さんで一旦ボロボロになったものの、高橋教授の「靖国問題」で反騰。

なので、「41歳からの哲学」の続編だという本書にも期待がかかります。 実際、かなり面白かった。 「うーん、成程」と唸る程の事は稀だったけれど、 その時々の「お題」をたった 3 ページで(週刊新潮誌のコラム的記事を集めた本なので) どうさばくのか、興味津々で読み続ける事ができました。 例えば、表題になった「勝っても負けても」の節で曰く、

たぶん、最近テレビでしょっちゅう見かける、ベンチャービジネスのあの社長、 ああいう人が勝ち組の星と言われているのではなかろうか。世も末であると、 私は感じる。

がははは、御意。私自身も、まさに同じ言葉(「世も末じゃあ」) で評した事があります。 でもそれは友達に言ったのでした。池田さんはそれを活字にするところが凄い。

でも、いつかも書いたけど、少くとも私にとっては、"Page Turner" 必ずしも「感銘を受ける本」にあらず、です。 読んでの感想を卒直に言えば「○○○は気楽でいいよなぁ」です。 ○○○は「物書き」だったり、「評論家」はたまた「オタク」だったりしますが、 決して「女」ではありません。 (でも、上坂さんのミーハーぶりにがっかりした直後だから、 そう言ってみたい気がちょっとはしますが:-p)

何が一番不満かというと、やはり「読めば読む程、 何が言いたいのかようわからん」事ですね。 もっとも池田さんは

だいたいにおいて何を言っているのかわからないと言われる。 しかし、わかる人には完全にわかるという事がわかっている。 またじじつ、完全にわかると言ってくる人がいるものだから、 この仕事は面白いという部分もある。

なんて、既に自覚されているようなので、さらにわざわざ 「わからんぞ」と言つのるのも野暮ですが、 しかし、こんな風に自己弁護しているこのあたりが既に「ようわからん」 のは、これはちょっと凄いぞ、と。 そもそも「わかる人には『完全に』わかるという事がわかっている」 ってどういう意味なんですかね。ひょっとして、誰かが 「完全にわかりました」って言って来たから、ってそれだけ? まさかね。それですんだら警察、じゃなかった哲学は要らない。

この節は「言葉の効用」(p. 35) と題されていて、その後次のように続きます。

では何か言葉を読んでわからないと感じる、この事自体はどういう事なのか。 「わかる」とは何をわかることなのか。 そのことがわかるのでなければ、 言葉を読んでわかるかわからないかなんてことは、 じつはどっちでもいいことなのである。

私にはこのくだりもさっぱりわかりませんが、 しかし筆者の言ってる事がわからないという事だけは自信が有る。 なので 「わかってもわからなくてもどっちでもいい」なんて言ってもらう必要はないぞ。 というか、それは筆者の逃げ口上なのでは? 「あんまり、わからんわからんって下らん事に拘るな (お願いだから追及しないで)」と:-p そもそも「『わかる』とは何をわかることなのか」に対して、 期待される回答は何なんですかね。そもそも適切な問いになっていないような…。 「『わかる』とはどういう事なのか」なら、まあちょっとはそれらしいけど、 それでもおいそれと答えられるような問いではないような気もしますが。

考えてもみたい。言葉を読んでわからないと感じるというこの経験は、 じつはとても貴重な体験、貴重な瞬間なのではないだろうか。 我々、言葉を読んで何かをわかるという経験に慣れすぎている。 世の中、読んでわかる言葉だらけである。

お生憎様ですが、私ゃ年がら年中訳のわからん文章と格闘しているので、 とても「貴重」だなどとは思えないのでした。 なので、読んでわかる言葉「だらけ」だ、などと文句を言わないし、 さっさと理解して、内容の吟味を始められた方が良いに決まっている! (「考えてもみたい」は洒落ですよね。それとも誤殖?)

読んでわからなければ、その言葉の方がおかしいのだと思ってしまう。 そういう場合も確かにある。いや、その方が多いとも言える。 しかし、そうでない場合だって、中にはあるはずである。 わからない言葉にぶつかって立ち止まる瞬間、人は、 これまで考えたことのなかったことを考え初める入口に立っているかもしれないのである。

山本七平さんや、養老教授他の方達のおかげで、私もやっとその境地 (「解らないのは著者の方がおかしい」)を開きつつあるのですが、 でもまだ一読してそう決めてしまう程の段階には達してなくて、 一応は解ろうと努力します。 で、今度もかなり努力したんですが、この文章や他の部分が、 これまで考えてもみなかった事に目を開いてくれる「ありがたい『わけわか』」 とはどうしても思えて来ないのですよ。

たとえば、この池田の言葉は、難しい言葉や、 ややこしい言い回しが使われている訳ではない。 なのに、なんで読んでわからないのか。

いや、ですから実際ややこしいし、辻褄が…

おそらくは、言葉というものは何かを言うものだと思っているからである。 何かの意見や主義主張を、言葉というのは言うものなのだと。 しかし、これは違うのである。

おお、「言葉というものは何かを言うものではない」と。 では何をするものなのか、いやがおうにも興味は高まります。 でも、これって、 「言葉というものは何かを言うものだ」と思っている人は、 池田さんのおしゃる事が解らなくて当然と言ってるんですよね、多分。 だったら、さすがに大多数の人が解らなくても無理はないので、 早く「これは違うのである」を証明(説得)してくれなくちゃ、 多勢に無勢で、何とかの遠吠えに聞こえてくる…。 でも、そんな大袈裟な事になる前に、御自分の文章がよく推敲されていない (言ってしまえば下手)かもしれない、 と疑った方が余程生産的なんじゃないか、と思いますがね。

憲法改正に賛成か反対かと問われれば、たいていの人は賛成か反対かを答える。 世の状況について、人は意見をもつべきだと思っているからである。 しかし、意見を持つとはそもそもどういう事なのか。 自分はこう思うということを、 正しいと思うから人は言う。 しかしそれは本当に正しいか。では「正しい」とはどういう事か。 人は意見を言う前に、それをこそ考えるべきである。 正しく考えられていない他人の意見を、 いくらたくさん聞いたってしょうがないではないか。

「意見を持つとはどういう事か」「正しいとはどういう事か」を理解してなきゃ、 意見を持ってはいけないって事でしょうか。 たとえ回答者を「哲学者達」に限定しても(限定したら余計に) 一定した返事が帰って来そうもない「大問題」に思えますが、 これらに回答を持っていなければ、意見を持ってはいけない、と?これって、 「意見を持つなどおまえらには十年早い」と言い放っているような気がする。 それで、池田さんは、これらの「どういう事か」に、 どのような理解を御持ちなんでしょうか。

しかし人はそうは思わない。自分と同じ意見を聞きたいし、 違う意見は聞きたくない。同じ意見は正しくて、違う意見は間違っている。 ほとんど反射的に人はそう反応する。考えるという事をしないのである。 他人の意見で判断し、自分の意見として選択したい。

うーん、微妙に論点がずらされていて、フォローしかねるのですが、 池田さんの書いたものがわからない人はこうにちがいない、 と言ってるのですよね。 でも、私は自分と同じ意見だけを聞きたいとは思わないし、 自分と同じ意見のみが正しいとも思いませんが、 それでも池田さんのおっしゃる事は解りません。

たとえば、憲法というものは、それ自体が言語である。 言語による構築物である。 憲法について考えるとは、言語的自覚をもつという事に等しい。 だから私は憲法はポエジーであると先般書いた。 改正に賛成でも反対でもない。ポエジーを議論するとは野暮である。

一見はぎれが良いですが、 「それ自体が言葉による構築物」はそれこそ無限にあるので、例えば 「たとえば、{法律|省令|条約|意見} というものは、それ自体が言語である。 言語による構築物である。 {法律|省令|条約|意見} について考えるとは、 言語的自覚をもつという事に等しい。 だから私は{法律|省令|条約|意見} はポエジーであると先般書いた。 改正に賛成でも反対でもない。ポエジーを議論するとは野暮である。」 とも言える訳ですかね。なんとも浮世離れした見解…。 ったく○○○は気楽で良いよなぁ。

こういうのが、おそらく何を言っているのかわからない。 人は、意見表明ばかりを聞き馴れているからである。右か左か、敵か味方か。 それがわからない言葉は、「わからない言葉」なのである。 窮地の朝日は池田を使えと、筆の勢いで書いこともあるが、 そんなの来るわけないのである。 右か左かわからない、肯定しているのか否定しているのかもわからない。 新聞にとって、こんなあつかいづらい書き手はないのではなかろうか。

おそらくではなく、まず確実に理解も合意もできないと請け合います。 また、ものは言いようですが、「あつかいづらい」からではなくて、 単に新聞じゃ「つかえない」から採用しないんじゃないですか? 殆んど何言ってるのかわからないし、たまに解っても支離滅裂なんじゃぁ、 新聞の読者は怒り出すでしょう。 もっと言うなら、 他人に理解できないのは「意見表明をしない希有な文章だから」ではなくて 「よくわからないありきたりの駄文だから」というべきではないでしょうか。

だから私は、いよいよ仕事を自覚するのかも知れない。 言葉というものは何かを言うもの、意見や立場を表明するものと、 書くほうも読むほうも思い込んでいる。こんな世の中は変である。 思い込みを強化するのが言葉なら、思い込みを打破するのも言葉である。 池田の意見とはこれこれである、そういう風には絶対言えない言葉を書きたい。 何かを言ったと思わせたら、物書きとして負けなのだ。 この仕事を始めてから、ずっと私はそう思っている。

がはは、そんな大層な……。 「言葉というものは何かを言うものではない」としたら 「じゃあ、何をするためのものなんだろ」と、興味津々で読んできたんですが、 何の事はない、結局「思い込みを打破する」ためにあるんですね。 なのに「何かを言わない」が信条? でも、一方で 「こんな世の中は変である」も「物書きとして負けなのだ」 も明確に意見を表明していますよね。 ここは敢えて「物書きとして負け」る事を選んだのでしょうか。 なんか矛盾云々より、 それ以前のとても低次元なところで単に「辻褄が有ってないだけ」のような……

論理以前と言えば、読んでいて浮ぶ素朴な疑問

云々には、この本の中では答えてくれてませんが、 きっとこれらは池田さんにとっては 「無定義用語」(公理?)なんでしょう。 こんな風に前提(公理)がとっても怪しいんだから、 たとえ途中の論理・推論が完璧でも結論が「わけわか」になるのはあたり前。 その論理も支離滅裂と来ると、もう何をか言わんや、ですよね。 こうなると、まさに「正しく考えられていない他人の意見を、 いくらたくさん聞いたってしょうがない」としみじみ同意できます。

補遺 (9/17/06 (Sun)) 時間を置いて読み返してみると、我ながら結構激しく「八つ当たり」してますね。 池田さんの本は、一読したときは「ちょっと面白い」と思ったものの、 よく理解しようと読み直してみると、「わけわからん」事が多すぎて、 だんだんイライラが高じた結果かと…。

しかし「世の中広し」で、池田さんのファンという方までいらっしゃるようです。 (「わかると言ってくる人が居る」というのもまんざら嘘でもないんですね。 でも、この方が本当に池田さんが期待するように解っていらっしゃるのか、 池田さんにちゃんと聞いてみたい気がする。)

今私は池田さんの元の記事を読む手段が無いのですが、 「国家の品格」に関する個所 は比較的長く引用がされていて、 原文に対してファンの方の理解をいくらかでも対応づけられます。 なので敢えて長い孫引きをやりますが、

かの国の言動をもって、正気ではない、と非難するだけの資格がこの国にあるだろうか。 我々がかの国と同じ状態だったのは、たった六十年前のことである。 根拠のないひとつの観念を絶対と思い込み、 その観念を守るためには全員で死ぬことを辞さない。 被害者意識が選民意識に反転した集団が、追い詰められると何をするか、 一番わかっているのは、あるいはこの国の我々である。

  しかし一方で、正気の国へと転じたとされるわが国は、 天から降ってきた民主主義という観念を思い込んでいる。 親が子を殺し、子が親を殺し、そうでなければ稼ぐが勝ちだ。 こういう社会は、ひいき目に見ても正気ではない。(後略)

前半は、一見「さすが」です。 でも「勝っても負けても」の中の「歴史認識やめてしまえ」 や「自分で歴史を思い出せ」を読んだ後では、 「えーっ」と私などは思ってしまいます。 これは「(やめてしまうべき)歴史認識」ではないのか? そもそも「軍国日本が何をやったかなんて誰にも真相は解らな」 かったはずでは?云々。まあ、こういう「揚げ足取り」は惜くにしても 「何をするか一番わかっている我々には、 かの国を正気ではないと非難する資格は無い」という理屈はおかしいのでは? 「『六十年前の我々と同様、今あなたの国は正気ではない (だから行きつく先は破滅ですよ)』 と非難もしくは説得できる」というのがまあ普通の「話の流れ」ではないでしょうか。

しかし、本当に凄いのは後半で、素直に読むと「民主主義」とは 「親殺し・子殺し・拝金主義」の事だ、と読めます。 さすがにこれは二つの間に言葉を挟むのを忘れただけなのかも知れませんが、 どちらにしても「論理に飛躍が有る」という批判はまぬかれない。 ましてや、 「我々は正気ではない(と池田さんが思っている)から、 我々はかの国を正気ではないと非難できない」 というのは、まあ何というか「よく言うよ」としか言えません。 でも、有難いもので、彼のファンの方はこれを評して

 あいかわらず、端的で明快なするどい文章ですね。「親が子を殺し、子が親を殺し、そうでなければ稼ぐが勝ちだ。」という世相の斬り方もあざやかです。端的な文章でかつ、流れに論理破綻もなく、考えに一点の曇りもないのが、池田さんの「透徹」な文章なのです。但し、国家は「狂気」であると端的に言ってしまうので、賛同しない人も多いのですけど。

 「民主主義という観念」に否定的なのは、一瞬右っぽく聞こえますが、「国家の観念」を狂気と言っているので、やはり池田さんはもっとラディカルなのです。

と好意的(ベタ誉め?)です。 文脈の中で「親が子を…」が世相をあざやかに切り取っているとは思えませんが、 まあ一見した限りでは「端的で明快なするどい文章」と言えなくもない。 でも「流れに論理破綻もなく、考えに一点の曇りもない」とまで言い切るのは、 「ファン心理」の行きすぎじゃないですかね。 池田さんの「論理」は破綻云々以前で、 そもそもそれぞれの言葉がまともに繋ってない。 しかも言ってる事(失礼、「言っていない事」でしたっけ:-) が支離滅裂というかころころ変る。 実際、ファンの方もかなり理解に苦しんでいるように見うけられる (「右っぽく聞こえるけどもっとラディカル」:-) 。 なので、個々の段落を「ポエジー」と見て「端的で鋭い」と言うぶんには、 まあ「あなたもお好きですなぁ」ですが、 全体の整合性や一貫性の無さに目をつぶるのは、 「ちょっと優し過ぎ」のように思えます。 第一、池田さんは「何かを言ったら負け」 が「物書きとしての信条」なので、 読者が彼女の何をどう解釈しても「そうは言ってない」 と言われそう…。老婆心ながら、まともに取り合わない方が良いと思います。

でも一方で、徹底的に付き合っていただきたい気もする。 他の個所でもなさっているように、 あまりにも酷過ぎるところ(「何かを言ったら負け」等) は無視するか、冗談という事にし、唐突な用語や誤用は言い換えて、 何とかわかる文章に書き直していただければ、と思います。 池田さんの参考になるかも知れないし、 少なくとも私他の読者にはとても時間の節約になります。

それにしても、週刊新潮の編集者の方々は池田さんのこの「わけのわからなさ」 を何とも思わないのかな。もしそうなら「世も末である」かも。


上坂 冬子、加藤 紘一 「中国と靖国 どっちがおかしい」 文芸春秋 8 月号 p.128, 2006

8/20/06 (Sun) ***--

単身赴任しているおとっつぁん(最近息子は私をこう呼んでくれる)を、 留守家族が夏休みを利用して訪れてくれたのですが、 その時のおみやげが何と文芸春秋。 「なんだかなぁ」と一瞬思ったけど、 たまには、気に染まない意見も読まなくては、と一念発起、 とうとう殆ど全部の記事を読んでしまった。 (何だか、このごろ雑誌を読み通せなくなったなぁ、トシのせいかなぁ、 なんてと思っていたけど、要するに読む雑誌が有りすぎるせいだったのか…。)

読んでみると、意外に面白い記事もあるじゃないか。(あたりまえ、か。) 鳥飼久美子、M. ピーターセン、「何で小学校で英語やるの」と、梅田 望夫、「グーグルを倒すのは '75 世代だ」なんかは、 もともとこの著者達のファンなので、面白いと思っても不思議はないけど、 梯(かけはし) 久美子、「美智子皇后と硫黄島―奇跡の祈り」や、坪内 裕三、「人声天語」にも感動したり、感心したり。

しかし、カバーストーリー(?)の、「論戦 上坂冬子連続対談」は、 なんともお寒いとしか…。 いや、対談相手の方々(加藤紘一氏、古賀誠氏、湯澤貞氏)は、 それぞれの立場を代表したそれなりの発言をなさっているので、 対談自体は(納得できたかは別として―湯澤さんのおっしゃる 「分祀できない」は、なんだかだだっ子の言い分みたい) 意外に面白かったのですが、上坂氏の発言が「いかにも」 という感じでいただけなかったのでした。 私にとってのこれまで上坂氏は、傲慢というか 「その自信はどこから来るの?」 という感じで、敢えて読む程のものではなかろう、 と何となく避けてきたのですが、 今回は(他に読むものがないせいで)久し振り(10 年ぶり!?)に読み通してみたわけです。 で、傲慢なわりには、(むしろ傲慢だから?) 卑怯未練というか情けないと言うか、そういう面もあるな、と。 特に、加藤紘一氏との対談では、そう思えました。 得意の論法(これまではさまざまな相手をやりこめてきたに違いない) をぶつけるのですが、何倍も勉強していて、 かつ深く考えている加藤氏にことごとくはねかえされて、曰く 「加藤さんのようなインテリは、私達ミーハーの現実論に苛立って…」とか 「なんか大学で講義を聞いているような気がしてきました…」 とかの逃げ口上。 自分から論戦を挑んでおいて、その言い草は無いだろう、と思うのですがね。 とにかく、上坂氏には本当の歴史意識も知的誠意も無いんだ、 という事だけは良く解った。 (これからは「ミーハー冬子(ばあ)ちゃん」と呼ぶ事にするか。)

対照的に、私にとっての加藤さんの株は急上昇。 もちろん少しは編集してるのでしょうが、本(書き物)ではなく対談で、 しかもこんな嫌な相手にもかかわらず、 これだけ説得的な議論を展開できる国会議員が居るのか、 と感心してしまいました。(ふーむ、まだ日本も捨てたものではないかも。) しかし、「加藤の乱」(私には結局何が何なのか訳がわからんかった) で「失脚」してしまったのか、 総裁選には名前が上ってきませんね。 この加藤さんなんかが土俵にも上らせてもらえず、 あの安部さんがいつのまにか本命になってしまう等というのは、 自民党の不幸というより日本の不幸かも。

ところで、一昨日、阿呆な奴が加藤さんの自宅を全焼させて、 割腹自殺を図ったとか。 加藤さんにはとんだ災難ですが、これで注目されて総裁選に出馬、 なんてなると良いかも…(ならないとは思いますが。) なんて冗談はともかく、 この記事を始めとする一連の発言に対する報復だとしたら、 「理屈で勝てないから暴力で」という訳でしょうか、なんだか嫌な世の中になってきました。 誰か(サミュエル・ ジョンソン?) が「愛国心はならずものの最後のよりどころ」だなんて言ってましたが、 現代日本でそれが「靖国は…」とならなければ良いのですが。


Hardcover: Stephen King, CELL, Scribner, 2006
CD: Stephen King, CELL, Simon & Schuster, 2006

8/12/06 (Sat) Hardcover: ***--; CD: ***--;

"Angels and Demons" で縮約版の CD に凝りたので、次は縮約版でない奴を、と思っていたら、この本と CD が Barns & Noble で目に入りました。 (なにせ、平積にしてあった量が半端じゃなかった。)King さんとは、"Bag of Bones" 以来の御無沙汰("Desperation" は結局読まなかった)ですが、 最初の数ページをめくった範囲ではとても面白そう。CD も本(ハードカバー)も 40 % 引きな事もあり迷わず買ってしまいました。

読み始めたら(期待にたがわず)ぞくぞくする程の興奮。 携帯電話からの音声でこんな事が起きる筈がない… という疑念はついて回りましたが、それを圧倒するストーリーテリングの冴え。 主人公が事態の全体像や原因を捉え切れずに、 ただ驚嘆したり右往左往している様子を、抑えた筆致で書き連ねるので、 余計不気味さが増します。特に、彼のモノローグが素晴らしい。

が、読み進むにつれて、段々 「おいおい、最後にはちゃんと大団円にしてくれるんだろうな」 という懸念が大きくなって来ます。 実際、その懸念の通り、こちらの疑問には殆んど答えてもらえないままに、 唐突に話は終ってしまいます。Pulse は、誰が何のために送り始めたのか。 Ruggedy man は、単なる Phoner の独りなのか、そうでないのか。 警察や軍隊はどうなっていて、何をしているのか。New England 以外の米国、他の国はどうなっているのか、等等。

King さんの小説は、もともと「不条理」を舞台回しにしている事が多いので、 この手の不満はいつもついてまわるのですが、それでも(少なくともこれまでは) それぞれの小説の不可分の要素として受け入れられるものでした。 (しかも、それはそれでとても面白かった!"Fire-starter", "Pet Sematary", "Bag of Bones," etc. etc.) しかし、この本ではその不満が極限に達して、全体として「何これ?」 になっています。 多分、大前提(「音声によって人の脳を reboot できる」)が「とんでもない」ので、 それを上手く説明してくれる(だましてくれる)事を期待していたのに、 あっさりはぐらかされたのが、逆怨みの原因でしょう。

あと、ヒトの脳と、コンピュータもしくはその HDD とのアナロジーがいかにも大雑把で、「おたく」 の私には、大いに不満を感じるところ。 (ですが、正常人には些細な事なのかも。)

Audio book の方は、かなり早口で、私のリスニング能力では、テキスト (小説本体)を見ていても、しっかりフォローできない事もありましたが、 それを措くなら、とても良い朗読ではないでしょうか。 書かれた小説としてもモノローグが素晴しいと上に書きましたが、 それをイタリックにするすべがない朗読で、何の問題もなくそれと解る、 というのは、読み手の技量が大したものだという証明になっているのでは、 と思います。ただ、つなぎ合せに失敗したのか、妙に低い声になる事があり、 これだけは「ちょっとなんだかなぁ」でした。


藤原 正彦 「国家の品格」新潮新書, 2005

1/8/06 (Sun) **---

養老教授の「壁」シリーズ以降、新潮新書は意識的に避けてきたのですが、 この本は、某大新聞の社説が引用していて、 そこから推測する分には結構面白そう、という事で買って読んでみました。 しかし、なんというか、早い話が「ハズレ」でした。

個々の話は結構面白いし、「あたっているなぁ」とも思う事も多いのですが、 大筋の話の流れや結論がなんとも…。 この人には「歴史意識」なんてものはあまり無いと見える。 例えば

云々。

一見筋が通っていて、勇ましくもあるのですが、 「はて、具体的には何をどうしようと仰っているのかな?」と考え初めると、 途端に途方にくれてしまう。そもそも他の「基本的自由」無くして、 「権力への批判の自由」などという贅沢なものが存在しうるものでしょうか。 「自由」が実在しないフィクションならば、 武士道はもっと根も葉もないたわごとでは? 「度の過ぎた対米従属はやめて、 ちょっとは『品格』とか『思いやり』に思いを馳せてはいかがでしょうか」 と言うのなら、まあ解るけど、現憲法の最も重要な原則を全部捨てて、 「武士道」に乘り換えようというのだから、とんでも無い話です。

「そんなこたぁ、うまく行くはずがない。そもそも、辻褄が合ってないので、 安定した制度の基本原則には成り得ない」と書きかけて、 そうかこれも理屈というか論理なので、 論理を否定する著者に対する反論にはなっていない、と気がつきました。 まさに「論理を否定・拒否する人」にはつける薬が無い。 (「んなアホな」と言うしかない?)

「長い論理は危うい」そうなので、たかだか 2 - 3 step くらいの論理で反論を試みるなら…

著者が称揚してやまない岡潔さん(「春宵十話」)についてもしかり、また、 小平邦彦さん(「僕は算数しかできなかった」)についてもしかりで、 大数学者のお書きになるものは、 エッセイとしては凄く面白いのですが、 評論(文明批評?)としては今一のような気がします。 半生を論理を研ぎすます事に捧げていながら、世俗にかかわる事になると、 途端に話の辻褄が合わなくなるような…。 論理を極めたら、情緒・形・仏教・武士道を見い出すに至ったという、 常人にはうかがい知れない一種の悟りなのか、 それとも単なる世間知らずという事なのか。

Dan Brown, Angels and Demons, Pocket Books, 2000
CD: Dan Brown, Angels and Demons, Simon & Schuster, 2003

11/12/05 (Sat) Paper Back: ****-; CD: ***--
11/19/05 (Sat) 改訂
1/8/06 (Sun) 再読
大ベストセラーとなった "The Da Vinci Code" はこの小説の続編。 なので、どうしても比較してしまいますが、 お話としては、こちらの方が少しだけ「まっとう」なような気がします。 特に「謎解き」に関しては、"The Da Vinci Code" より「納得」できる。 ("The Da Vinci Code" はちょっと「こじつけ」っぽい論理に、すべてのプロットが依存している、 みたいな。)

しかし、"Angels" の方にも「ちょっと何だかな」 が結構あります。これと Deception Point はとっても良く似ていて、問題なところも同じ。 すなわち、 著者の科学的というか工学的センスを疑ってしまうところがポツポツ有るんですね。 一番「何だかな」は、反物質が消滅する時の威力の見積もりが過小な事。 核爆発が中性子やベータ線も出すのに対し、反物質の爆発 (annihilation) では光子だけ、なので放射能も出ない…とありますが、 だからと言って、ここにあるような「大きな花火」で済む訳がない。 光子と言っても当然ガンマ線が含まれるだろうし、 それが周囲の空気に吸収されて光球を作り衝撃波を出す事は、 核爆発と同じです。なので、バチカンのサンピエトロ寺院前で、 5 キロトン相当の反物質の爆発を見物していた人達は、皆無事では済まない…。 (現在のところ、反物質を作り出すにはannihilation で得られるエネルギーの一万倍のエネルギーをつぎ込む必要があるらしいけど、 これは「工学的な困難」で、物語の中で克服したという設定なのかも知れないから、 問わない事にします。)

もうひとつ「あんまりだ」と思ったのは、 「合成」した反物質を保存する容器の構成。 反物質は純粋な水素という事になっていて、これが妥当かどうか私には解らな いのですが、 しかしどうもそれが液体の形になっているらしい、 という方は、どうしても許せない。 そもそも、発生した反電子と反陽子が合わさって、 (反)水素分子になっているなら電気的に中性のはずで、 磁場をどんな風に組み合わせても、これを閉じ込める事はできなさそう。 また、温度をある程度以下に下げなれば、どんなに圧力を上げても、 気体は液体にはならないので、特に冷却能力を持って無さそうなこの容器では、 上記の理由で圧力を掛けられない事も相俟って、 液体の状態に保つ事はとても難しそうです。 (反物質にも熱力学の法則が当て嵌ると仮定してですが。) もっとも、中性の「液体」を磁場で閉じ込める等という箆棒に比べれば、 「真空を介して冷却する」 のは物理的に不可能とも言えないような気がしますが、 しかしこんなにでっかい窓が開いていたのでは、まず無理。 (外界の光のエネルギーが入ってきて、暖まってしまう。)

あと、この容器の充電器を作るのはとても難しいという想定ですが、 上のような機能の容器を実現するのは不可能に近いにしても、 その電池に充電する事がそんなに難しい筈がない…。 さらに電池に関して言うなら、 ほとんど「お約束」の 「電池切れまでのカウントダウン」で話を盛り上げるのですが、 これって(爆弾の時限装置とちがって) 安全のために残り時間を表示するためのものだろうから、 その読みを秒単位で信頼したのでは危っかしくて仕方ない。 (Note PC の動作可能時間の表示を気にした事がある人なら、解りますよね、この感じ。)

あと、カウントダウンに合わせて、 真犯人が自分のプロットの最後の締め括りをする場面も、 なんだか見え見えで、それまでが、とても良かっただけに、 ちょっとがっかり。 まあ、枢機卿の一人がそのトリックに気付くというところが、 いくぶん救いになってはいますが。

とは言うものの、全く意外な真犯人とか、間一髪のアクションの連続とか、 ストーリテリングの腕前は、"Code" での「大化け」を予感させるに充分で、 とっても楽しめました。もしこれが、私にとっての最初の Brown さんだったら文句なしに星五つなんですが、"Code" と "Deception" の後なので、ちょっと減点。

久しぶりに、Audio Book も買いました。Richard Poe さんのナレーションはなかなかのものです。 しかし、聞いていて特に感じるのは、Brown さんの本には外国語がとっても多いって事。 私のように地の文 (英語) が既にこころもとない者にとっては、 これは結構辛いものがあります。(何時ラテン語(イタリア語?) に変ったのか分らない:-p) もう一つ、よく確かめずに簡略版を買ってしまったのですが、 ペーパーバックと合わせて、 リスニングの練習材料にしようと思っていた私には、 ちょっと悲しい事になりました。以前の簡略版のように、 節を単に端折るというのではなく、あまり破綻が出ないように、 かなり工夫がしてあるんです。 これって、普通に聞く人には良いのでしょうが、ペーパーバックを transcript として使おうと思うと、とっても難しい事になります (該当箇所がなかなか見つからない)。 そういう事を期待される向きには、完全版の方をお勧めします。


補遺 (1/8/06 (Sun))色々と「納得行かない」 事を書きつらねていますが、でも、読み返してみて、 何よりの「あんまりだ!」は、反物質の容器を映している "Wireless Camera" を見付けられない事。 無線で転送されてくる画像を受けて表示しているのに、 その電波をたどれないはずがない!! リアルタイムでカウントダウンする画像は、 「危機が現実のものである事を強調するために必要」だったのでしょうが、 しかしなんぼなんでもこれは「あんまり」です。 (また一方で、そういう私(一応無線の技術者) が最初読んだ時は気がつかなかった訳で、あまり大した瑕ではないのかも。)

高橋 哲哉 「靖国問題」 ちくま新書 2005

8/20/05 (Sat)*****

「うーん、さすが哲学者」と言いたくなる論考です。 ドイツ哲学専攻だった西尾さんの「国民の歴史」があまりに 「と本」だったので、 この本も著者が哲学専攻と聞くと 「う、どうせまた…」って思ってしまいましたが、 敢えて読んでみて、やっぱり哲学者って凄いのかも、 と認識を新たにしました。 あと、ちくま新書って、副島 隆彦「英文法の謎を解く」(*----)とか、 小野谷 敦「もてない男」(*----)、養老 猛「ヒトの見方」(**---)等々、 ことごとく「なんじゃこりゃ」だった (自分に見る目がない、とも言う) ので、そういう意味でも 「嬉しい誤算」でした。

私はこれまで「靖国問題はつまるところ『感情』の問題であるから、 賛成派、反対派が納得・合意する方策などありえない」と思って来ました。 なにせ、自分の親の年代の方々は殆ど、 また、あまり年齢の違わない同僚のうちの何人もが、 小泉首相の靖国公式参拝を称賛していますから。 しかし、著者は敢えて「感情の問題」 をこの問題の重要な一面とする事で相対化し、 戦没者を悼む事と顕彰する事の違いを明らかにして、 両者を切り離して考えるべし、としています。 私にも「ひょっとしたら解決不可能ではないかも」 と思えてきました。

そして、著者の結論は、

の二点に絞られます。「たったこれだけ?」の感はありますが、 本書の各章を踏まえれば、具体的かつ周到で、 よく考え抜かれた結論ではないかと思います。 何かを法制化・強制するのではなく、首相に参拝とりやめを勧め、 靖国神社に合祀取り下げの受け入れを勧めるに過ぎないのですが、 前者は政治的行為の変更を求めているのだし、 また後者は「政教分離」・「信教の自由」 に守られた宗教法人に関する事なので、こう言うより他は無いのかも。

この本を読了したのは 8 月の初めでしたが、本当のところ 「この結論は good point だけど、小泉さんはやっぱり参拝するだろう」 と思っていました。でも (この本を読んだから、という事ではないだろうけど) 今年の靖国神社参拝は控えられたようです。 最初の点が実現した訳で、著者のおっしゃる「自由な言論」 の力を感じます。さて、二つ目の点について、 靖国神社はどうするでしょうか。 これについても私は悲観的ですが、同時に (小泉さんがあっさり私の予想を裏切ったように) 自発的に神社側がこれを認める事を願ってもいます。


Jonathan Kellerman, Twisted, Balantine Books, 2004

8/19/05 (Fri)***--

ふとした気の迷いから、Harry Potter の最新巻をハードカバーで買ってしまったので、 電車の中で読む本が無いという羽目になった。 小説なんかより、他に読むべき本が有るはずなんだけど、 この頃はどうも移動中に仕事の本を開くのは億劫…。 で、また、例の通勤途上の啓文堂で安直にペーパーバックを漁る事に。 なにしろこのお店、洋書は本棚 3・4 本分しかないので、ベストセラーをひょいと選ぶのには却って便利。

たまには新しい著者を開拓しなくては、という事で Jonathan Kellerman さんのこの本にしました。"psychological thriller/suspense" かぁ。なんだかお門違いのような気もするけど、"Da Vinci Code" みたいな「嬉しいあてあずれ」の例もあるし。

で、同じような「あてはずれ」を期待したけど、 そうそう「どじょう」は居ないもの。 そこそこ面白かったけど、さほどわくわくもしなかった。 喧伝されている「心理スリラー」って何?ってのが卒直な感想。 謎解きに心理学の理論を適用するのかな、なんて予想したけど、 そうでもなさそう。 確かに犯人は忌むべき psychopath (精神異常者) だけど、大抵の探偵・警察小説の悪役はそういう奴だろうから、 これが psycho thriller の所以でもないだろうし。理解に苦しむ。

それは置いても、6 年間連続して同じ日に鈍器で頭を叩き割られる、というという事件が起きているのに、 (副) 主人公の天才青年が持ち出すまで、 その相互の関連性に誰も気付かず来た、というのがちょっと「いまいち」です。 単なる偶然か、連続殺人犯のしわざか、 をつきとめるというのがプロットの重要な部分になっているので、 ここでわざとらしいと、ちょっと興覚め。 あと、クライマックスで、この天才青年が真犯人に遭遇するのが、 なんとも唐突。

あと、事件で共通に使われた凶器 (鈍器) が、直径 75-78 centimeters (cm) のパイプというと個所があって、これにはおったまげてしまいました。 多分 millimeters (mm) の間違いなんでしょうけど、 著者も校正係も最後まで気がつかなかったみたいですね。 アメリカ人も、いい加減に普段からメートル法というか SI 単位を使うようにすれば良いのに、と思います。それにしても、75 mm でも手にもって振り回すには太すぎるような…。

例によって、色々ケチをつけたけど、楽しく読めたし、かなりの page turner なのは確かなので、最新作の Rage にペーパーバックが出たら読もうと思っています。


Ken Follett, Whiteout, Signet, 2005

7/7/05 (Thu)****-

Jackdaws で衝撃を受け、Hornet Flight でもう完全に Follett さんの虜になってしまったのですが、その後読んだ Code Zero が、「面白いけど感激する程ではない」程度の印象に終ったので、 最新刊のこの本に期待するところ大でありました。 (「第二次大戦ネタでなくても面白いのを書いて欲しい」という期待。)

第一印象は「Jackdaws に似ているような…」でした。 背景が全く違う (第二次大戦中のドイツ占領下のフランス対現代のスコットランド) にもかかわらずそう言う印象を持ったのは、 主人公の境遇が似ているからでしょうか。 優秀で使命感に燃えている 30 台の女性(しかもかなりの美人らしい)。 その主人公に比較したらダメな元夫(元パートナー)がいて、 そいつに悩まされる、等等。

「危機」のスケールは大違いなのに、「はらはらどきどき」 させられる点では、ひけを取りません。 プロローグがとっても良くて、完璧に(しかも勿論自然に)読者を briefing してくれて、同時に先行きの不安感を掻き立てる…。 本編に入っても、それぞれの計画や思惑が、 大雪のせいでとんでもなく狂ってしまいます。 先の展開が全く読めず、著者に鼻面を取って引き回されている感じ。 それでも、それぞれの偶然が「自然」なので、「有り得ねえ」にならない。 さすが、です。

それだけではあまりに悔しいので、ちょっと八つ当たりの感がありますが、 苦言も書いておこう…。 まず、このエピローグは有らずもがな、なのでは? というか有っても良いけど、 あんな風に皆が手放しでハッピーになってしまうと、ちょっと白けます。 もちっとクールな後日談だけでも良かった。

もう一つは、ロンドンの「オールマイティーな友人」の存在。 プロローグでの事件を含めて死亡者が二人だけ、という具合に、 せっかく「身の丈に合った」ストーリィが展開しているのに、 彼女への電話一本で、ヘリコプター初め「リソースの問題」 が全て解決してしまう、ってのはどうなんでしょうね。 (ま、その友人が、話をぶちこわすほどには強力でなかったので、許しますが。)

けど、やっぱり Follett さんの話は面白い。Jackdaws に続いて、これも映画化されますね、きっと。あ、最近の邦画に 「ホワイトアウト」というのが有ったから、 邦題はちょっと変える必要があるかも。


Dan Brown, Deception Point, Pocket Books, 2001

6/19/05 (Sun)****-

実は Ken Follett の最新作と一緒に買ってあったのですが、 「これは面白いよ」という友人の勧めに従ってこちらを先に読む事にしました。

で、感想を一口でいうと、意外性はふんだんにあるのに、 話としてはあまり破綻していない、という「私好み」の小説でした。 しかし、まったく破綻が無いか、というとそうでもない…。 内容がどちらかと言うと科学技術寄りで、自分にとっては "Da Vinci Code" よりもはるかに「なじみ」がある分野なので、 より興味が持てる代りに、難点も余計見える、といったところでしょうか。

最初に「あり得ねえ」と思ったのは、氷河 (棚氷) に埋まった隕石を、レーザーで温め、その熱で氷を溶かしながら「地表」 まで引き揚げるという話。まずその隕石までレーザービームを通すために、 地表からその隕石までの穴を作る必要がありますが、 半透明な氷が相手では、 レーザーのエネルギーをうまく集中できないので、深さ数百メートルの 「細い」穴は作れないと思う。 よし首尾よくそんな穴が掘れたとして、 数トンの岩石を周囲の氷を融かす程暖める (しかも数日で数百メートルを引き上げる) ためには、少なくとも kW オーダのパワーが必要でしょう。 ヒーターならいざ知らず、そういう出力の (ポータブル) GaAs レーザーを作るのはちょっと難しそうだし (私は寡聞にして聞いた事がない)、 何よりそんなレーザービームをその表面に集中したら、 隕石 (貴重なサンプル) が無事には済みそうにない。

という具合に問題山積の「レーザーによる隕石の掘り出しプロジェクト」 ですが、たとえもしこれに成功したとしても、 その跡にできた穴の水に数パーセントでも塩分が含まれていた等という事は、 もっと有り得ないように思える。 融けた部分が井戸状にしばらく残るという仮定が既にキツイ (即また凍ってしまうような気がする) けど、いずれにしても、 隕石とその周囲の水に含まれていたかも知れない塩分は、「井戸」 にある大量の水で希釈される訳ですから。 (そもそも何でそこに塩分が? という疑問は、それがもとで疑惑の追及が始まる、 というのがプロットの重要な部分なので、ここでは触れない。)

最初に読んだ時は、さほど気にならなかったのに、 こんな風に考えを整理していると、なんだか話の根幹が危ういような…。 実は他にもちょこちょこ有って、例えば、 蚊くらいの大きさの飛行ロボットに、 十分な分解能のイメージセンサを付け、 その画像を数百メートルも無線で送信する、なんてのも有ります。 でもまあ、イメージセンサを nano machine に載せる、などという (Crichton さんの) 箆棒な話に比べれば、こちらは「原理的に不可能」とも断言できないので、 まだ許せますけど。(でも、相当に難しいのは確か。)

と、こう書いてくるとなんだかけなしてばかりで、 駄作みたいですが、そんな事はありません。 全体のプロットはよくできているし、はらはらどきどき、まさに 「巻を惜くに適はず」でした。 特に誰が怪しいかについて、うまく騙されてしまいましたが、 それも快感です (ちょっと強引じゃない?という嫌いはありますが) 。

という訳で、"Da Vinci Code" にはちょっと及びませんが、とても楽しめる本でした。


Dan Brown, Da Vinci Code, Doubleday, 2003

5/22/05 (Sun)*****
5/29/05 (Sun) 改訂

いきなり「全裸老人のダイイングメッセージ」で、 その上それから最初の手掛りまでの謎解きがなんだか「こじつけ」っぽくて (だってアナグラムなんです) 「うへーっ、こりゃいかにも」と思ってしまいました。 しかも、全編、シンボル、宗教、美術に歴史ですからねぇ。 そんなものがわくわくするほど面白いはずがない…。 という予断は、しかし、見事に裏切られて、 とてもエキサイティングな小説でした。 これまでと全く違う「面白さ」を教えられたような気がする程。 はらはらどきどきするのに、 必ずしも派手なアクションやスーパーヒーローは要らないんだなぁ、 というのが感想です (何を今さら:-)。

宝捜しなんだから、宝物がよほど「凄い」ものじゃないと「アホらし」 となるところですが、それが結構いけています。 (この先ネタばれあり。) インディ・ジョーンズにも出てたくらいで、目新しくもない Holly Grail ですが、これが実は具体的な「物」ではなくて、教会 の「キリスト自らが望んだ別の姿」を示唆する文書だった、という事になってます。 確かにこれくらいじゃないと、2000 年間にわたる確執や妄執の原因としては不足でしょうね。 (これに比べたら、映画 "National Treasure" の宝物なんぞは「まだまだ」。)

プロットは秀逸。 こちらの語学力の不足のせいか、 肝心の謎解きにピンとこないところもありますが、 それでも「プロットをぶち壊す」 程ではありませんでした。 ただ、ちょっとだけ文句を言わせてもらうなら、どうも Teacher (真犯人) の動機がしっくり来ない。何故彼がそこまでやる必然性があるのか。 また、(読者をだまくらかすための) 怪しい登場人物は何人も出てくるのだけど、 結局皆「良い人」なんですよね。ちょっと善良すぎてがっかり、みたいな。 あと、携帯電話がらみで「なんだかなぁ」が何か所かあります。 「国際線の機上で携帯電話に着信するなんて有り得ねえ」とか、 「なんで自分の端末の発信記録を見ることを思いつかないの」とか。

この本、お話としても勿論面白いのだけど、お勉強にもなります。 数学から西洋史まで。たまたま、息子の教科書にあった黄金 (分割) 比の話が出てきたりして、その偶然にちょっと驚きました。 それはそうと、フィボナッチ数列の隣合う項の比の極限が黄金比だって、知って (覚えて) ました?

本筋の部分とは別に、(私にもわかる) たくまざるユーモアも好もしく思える理由のひとつかも。 例えばアート・バックワォルドさんのルーブルを 5 分 56 秒で回る (アホな) 自慢話が引用されていて、なんだか嬉しくなってしまいました。

本文にも出てくる、ODAN (Opus Dei Awareness Network) の url には、辞書にもなかなか載ってない "Corporal Motification" とか "Supernumerary" などという言葉の詳しい説明があります。

ということで、例によって大ベストセラーを今さらどうのこうの言うのもナンですが、 お勧めの一冊です。


西尾 幹二 「国民の歴史」 産経新聞社 1999

5/15/05 (Sun)*----

最近 Book Off へ行ったら、この本が棚一つを占領していました。 一冊が厚い上に背表紙の文字が大きいので、ずらっと並ぶとなかなか壮観。 それで、大部前に買ってそのままになっていたのを思い出したのでした。

で、何なんでしょうね、この本。 通史でもないし、評論集の類いでもなさそう。 著者御本人は「論集」だと言ってるけど、それにしては軽すぎる (例えば、参照文献が示されていない。) 敢えて言うなら「新しい歴史教科書」を作るためのノート、かな? それならまあ解らんでもないけど、でも、 そんなものを出版してしまったのはまずかったと思います。

何しろレベルが低い、もしくはひとりよがりの箇所があちこちにある。 なかでも極めつけは「新しい歴史教科書をつくる会」(以下「作る会」) における歴史家の岡田英弘氏の講演を引用している箇所。

日本には大和言葉がある。つまり話し言葉がある。 口でしゃべって耳で聞いて意味がわかる言葉がありますが、 中国には言葉はありません。ごく最近まで、二十世紀の始めまでありません。 中国語という観念はなかった。あったのは漢字漢文にすぎない。 漢字は、あれは表意文字であって、表音文字じゃない。言葉は音です。 ところが表意文字であるという事は意味だけしか表現していない。 しかも変化がまったくない。格変化もないし時称もないし、 性も数もないし、要するに文法が全くない。 漢字と漢字の間の関係を示す方法がまったくない。 そうすると文法のない文章をどうやって解読するか、という難問題がある。 それでこれは簡単にいうと、古典の文の並べ方をそのまま踏襲するしかない。 ですから、独創的な意見や独自の感じ方を、 漢文で表現しようとすると全く不可能。 ありきたりのことしか言えないというのが漢文の宿命なんです。 しかもこのことは、論理の表現の方法がない。 それから感情の表現の方法がないという恐るべきことです。 ですから漢字漢文というのは非常に情報量が少ないんです。 しかも古典の文章をそのまま踏襲して、 述べてつくらずというのが中国の文章の書き方の基本である。 そのためにあれだけたくさんの文献があるけれども、 いくら読んでも新しい用法にぶつかるということはほとんどない。 同じ用法の繰り返しだけなんです。 だから中国史というのはじつは非常に不利な立場にある。 必要な情報がほとんど手に入らないんです。非常に貧弱なんです。 そういうことがある。 (後略)

異常に長い引用になってしまったけど、どこでやめても勿体ない気がして、 ついつい…:-p ここまで無知 (偏見) と傲慢さを兼ね備えた文章を読むのはひさしぶりです。 これを述べた人 (岡田氏) は、言語というものを全く知らないのか、 そうでなければ中国語に疎いのか。 モンゴル帝国の歴史に関する著書をものした外国語大学の名誉教授ともなれば、 そのどちらも当てはまらないと思うのだけど、まあ、 血圧の事をよく知らない医学博士もいらっしゃるので、 こっちもさほど意外でもないのかも。

私も中国語の事は殆んど知らないけど、常識的に考えても 「中国には二十世紀の始めまで (話し) 言葉が無かった」などという事はあり得ないじゃないですか。 もしそうなら、それまで中国人は筆談で生活していたんでしょうか。 それで、「中国語には全く文法がない」だって?そんな馬鹿な。 文法の無い (自然) 言語はないし、さらに言うなら、 その文法の総体的な複雑さはどの言語においてもほぼ同等のはず。 ましてや、「格変化」や「時制」「性」「数」 が無いから文法が無いなんてとんでもない。 それなら日本語にも文法は無いことになる。 また言うに事欠いて「論理・感情の表現の方法がない」だぁ? あの膨大な漢詩の世界は、感情表現の方法無しで築かれているんでしょうか。 はたまた漢字漢語を用いないで、論理だった日本語の文章は書けるのでしょうか。 最後に「非常に貧弱」ですって?ほんまかいな。あまりに歴史が長すぎて、 殆んどなんでも「古典」に出ているという事は有り得るかもしれないけど、 よしんばそうだとしても、それを貧弱とは言わないだろう。 (単に読み手の力量が不足しているだけなのでは?) 云々云々。 まったく、「バカも休み休みに言えよ」ですね。 かろうじて首肯できるのは「言葉は音です」くらいかな。 これだって相当おおざっぱな言い方だけど (犬の吠え声は音だけど、言葉ではない)、 「話し言葉が書き言葉より本質的」と理解するなら、それとはそのとおり、 というか言語学の常識。 だけど、それなら、 中国語の話し言葉を表現するための漢字が同時に表音文字でもあった、 というのも常識ですよね。

こんなデタラメを「作る会」 の方々は何の異議も唱えず、傾聴して信じ込んだのでしょうか。 本書の中でこんなに長々と引用しているところを見ると、どうもそうらしい。 これだけでも、会長 (著者) 様はじめ「作る会」 の方々の「常識」を疑うのに充分です。

笑ってしまうのは、こんな箆棒をそのまま信じてしまう一方で、 あろう事か、吉川幸次郎、貝塚茂樹、宮崎市定といった中国史・中国文学の大学者達を 「中華思想に忠実であった」の一点だけで切り捨てている事。 そして自説 (「中国語は貧弱」)を弁護して曰く、 「それならなぜ偉大なる中国が停滞し、過去千年混迷を重層的に繰り返し、 今なお文明からほど遠い本当の理由が説明できないことになるではないか。」 ひょっとして、「停滞」の「本当の理由」が「漢字漢文」にある、 とおっしゃりたいのでしょうか。 お隣の国を「今なお文明からほど遠い」とは言いも言ったり、ですが (お願いですから、この先、そんなセンスでまた歴史教科書を書こうなんて思わないで下さいね) そもそも、言語やその表記法が、 一文明圏の盛衰を決定的に左右するなどいう事には、何の根拠も無いように思えます。 どの文明も (言語の大枠はそのままで) 興隆、停滞、衰亡してきたのですから。 (もっと言うなら、筆者の言い分は 「日本が権威主義に陥り無謀な戦争を始めたのは、国語 (漢字) のせいだ」と断定した (筆者が軽蔑してやまない) 米国占領軍と同じレベルだ。)

他にも 「とにかく中国・朝鮮由来のものは何でも矮小化してしまわずにはおれない」 という言わんばかりの意図が露骨な箇所が多くて、ちょっと情無いというか、 鼻白んでしまう。むしろ日本の贔屓の引き倒しになっている。 そのもう一つの典型的な例は、 「魏志倭人伝は歴史資料に値しない」の章でしょう。

曰く、「簡単で無責任」「片々たる一編」「歴史の廃虚」…。 日本の国家に関する最初の本格的な文字記録に対して、 お門違いの非難に思えるのですが、 そもそも何が気に入らないんですかね、著者は。(私なぞは 「よくぞ残っていてくれた」と感謝したいくらいのものですが。) 「我が国の古代王権の位置と年代がぐらぐら揺れるような情けない状況とはもうさっぱり手を切りたい」 のあたりなんでしょうか。 でも、確実な証拠が少ないのだから、 なんで「ぐらぐら」したら情けないのか私には理解できませんが、 代りに古事記や万葉集に立ち返れなどというのはもっと理解できない。 「『実際にはどうであったか』はどうでもよくて、 古事記に書いてある『神話』をそのまま信じて、それでよしとしましょう」 というのでは、歴史学は学問ではなくなる。 上で引用されている岡田英弘氏でさえ、そんな盲信はしないで、 「古事記は平安初期に出来た偽書である」と断言しているらしい (『倭国−東アジア世界の中で』、中公新書)。 その「講演会」では、このへんもしっかり議論して欲しかったなぁ。

本の後のほうになると、「蔑視」の主な矛先は西欧や米国に変るものの、 筆者の偏見と狭量さはますます露骨になります。 内容の危うさもさる事ながら、 記述のそこかしこに出てくる素朴というか子供っぽい断定や「蔑み」 にうんざりさせられます。筆者によると、 西欧諸国は 13 世紀以降休みなく戦争ばかりしてきた極めて好戦的で残虐な国々であるし、 米国は有色人種 (特に日本人) 憎しでこりかたまった人種差別主義の権化となるらしい。 まあ、そういう面もあるのかも知れませんが、 それを正しい比例関係の中に置いて何が支配的な要素かを洗い出すのが 「歴史」なのではないですかね。

そもそも、他国を蔑み、優越感を感じてないと「愛国心」 は持てないものなんでしょうか。 そう信じている人々は、個人としてそういう性向 (ありのままの自分を好きになれない) を持つ人びとなのではないか、 と邪推してしまいます。私などは

と思いますけどね。ただ、最後の点については、 二代続けて極めて秀でた女性がお妃となったに違いないのに、 どちらも心身症で苦しんでおられるのは、 現在の皇室が制度としてどこかおかしいせいなのではないか、と疑っています。

という訳で、この本は立派な「とんでも本」だと思います。


Eric Van Lustbader, The Bourne Legacy, St. Martin's Press, 2004

4/26/05 (Tue)**---

映画の Jason Bourne シリーズ?の第二作を見逃がしてしまった。DVD が出るのは 6 月らしい。ではその前に原作を読んでおこう、 と思い立って、 会社帰りに寄った本屋さんにはあまり洋書は置いてなくて、 Ludlum さんの Jason Bourne の小説は一種類だけ。 あまりよく考えずにそれを買って帰ったのですが、 どうもかなり勘違いしてしまったらしい。 まず、二作目の映画の原作じゃなかった。 (Jason Bourne が主人公の作品は合計 4 作にもなっている。) もう一つは、なんとこの本、Ludlum さんの作品ではないのでした。 表紙に大きく Robert Ludlum's The Bourne Legacy とあるのに…。 まあ、小さく印刷されている部分も良く読めば、

Robert Ludlum's™ (bestselling character Jason Bourne returns in) The Bourne Legacy (a new novel by Eric ....)

となっているので、私の「早とちり」といえばそうなのですが、納得行かない:-p (そもそも、何で "Robert Ludlum's" が商標なんだ?) まあ、それでも、Ludlum さん自身の最近の作品はどれもイマイチだったので、違う作者が Jason Bourne をどう料理するのか、かえって興味が湧いてきたりして…。

しかし、最初の 50 ページくらいで、投げ出しそうになりました。 プロローグがちょっと「うーん、有り得ない」。 (楽に狙撃できる状況で、 なんでわざわざ兵員輸送車を強襲して侵入して、 ナイフを使わないといけないのか?) また、本編に入っても暗殺者が Jason Bourne に素手での格闘を挑んだりする。 こうしょっちゅう「アホらし」と思わされると、 読み続けるのが苦痛になってくるのだけど、いつものにように 「途中で止めるのは勿体ない」 なんていうケチな料簡を出して、読み続けたのでした。

幸い、その後は、個々のエピソードがかなり面白くて、 あまあ楽しく読み進められたのですが、 でもやっぱり、仕掛と謎解きが「ちぐはぐ」という感じは否めません。 Ludlum さんのとはまた違う「感じ」なんですが、 しっくり来ないところは同じで、 広げた大風呂敷に見合うだけの実体がない、というところでしょうか。 極めつけは (この先ネタバレ有り) 全編を通じてのプロットの要と言えるテロ行為の目的が、 一体何なのかさっぱり解らない事。 最大の悪役の目的は、彼に利用される Chechen の反抗勢力 (「テロリスト」) の大義とは違うところに有るのでしょうが、それが何なのか全く解らないのでした。

ちょっとがっかり。で、Bourne Supremacy を読むべきかどうか思案中。


Frederick Forsyth, The Veteran, Corgi Books, 2002

3/19/05 (Sat)****-

Forsyth さんの長編小説はいくつか読みましたが、 短編ってのは珍しいのではないでしょうか。Icon や The Deceiver が良かったので、このペーパーバックが出てすぐ買いました。 それが 3 年前。早速読み始めたけど、すぐ断念。 その後も、数ページ読んでは止めてしまう、という事を繰り返していました。 どうも英語が難しすぎて、なかなかとっつけなかったのでした。

収録されている短編は 5 編。どれも楽しめました。

The Veteran: 何回か撃退された最初の数ページですが、 今読み返しても、やっぱり難しい。 でもそれを乗り越えたら、 あとはまあなんとか楽しく読み続ける事ができました。 プロットは秀逸。あらかじめ筋が読めてしまう、 なんて事が全くない。でも、これって私のような読者には 「カタルシス」が少いとも言える。(贅沢というか身勝手というか:-p) しかも、意表を突く事を狙いすぎてちょっと不自然になってるのでは? それはそうと、裁判で陪審員達にどう説明するか、どう納得させるか、 という面が、事件の捜査の方向を大きく決定づけているんですが、 これがとっても危ういかも、という感想を持ちました。 我裁判員制度ではどうなるんでしょうね。

The Art of the Matter: これも面白かったけど、どこかで見た事があるような感じがします。 騙されたもしくは裏切られた主人公達が力を合せて復讐をとげる。 それも暴力的にではなく、それぞれのスキルと頭を使って。 Jeffery Archer の「100万 ドルを取り返せ」ですね。それでも、Forsyth さんの story telling の力か、ずっとはらはらどきどき。 特に後方のオークションの場面なんかは、読み続けるのが苦しかったくらい。 でも、そこだけに出てくる日本人の名前がいい加減なような。 Yosuhiro Yamamoto だって? Yasuhiro なら解るけど「よすひろ」なんて人居るか?もしこの本の翻訳が有るなら、 どう訳しているか見てみたい。(T. Clancy の "Debt of Honor" に出てくる Yamata も Yamada の間違いだろうと思っていたら、翻訳では「矢俣」になっていた。 ちょっと苦しい?)

The Miracle: 若い軍医の奮闘ぶりに感動して涙が出ました。 こんな場合なら、「奇跡」がおきてもいいじゃないか、 と唯物論者の私まで思えてしまった。 なのにこの結末。うーん、確かに「奇跡」や「聖人」なんて、Forsyth さんには似付かわしくないけど、 ここまで現実的というか世俗的に「説明」されてしまうと 「取り付く島がない」という感じ。 それとも自分が何か見落してるのかなぁ。最後の "And you know? They always fall for it." の fall for に「だまされる」 という他に特別な意味でもあるんだろうか。

The Citizen: これも面白い。結末が予想もつかなかった。というか、 なんでそうなる必然性が有るのか納得できなくて、 何度か読み返したりしました。 短編はプロットが緻密なせいか、正確に読む力が要求されるんですね。 くやしまぎれに言うのじゃないけど、回想やセリフじゃない 「地の文」が真実を述べていない、というのは「反則」じゃないですか、 Forsyth さん?

Whispering Wind: これは、これだけで一冊になりそうな、かなり長い小説。 でも倦きさせない。まず主人公が良いですねぇ。米国中西部の Wilderness で生れ育って、そこでの自然や生活に通暁している青年。 純朴で情に厚くて敬虔。 文字は読めないけど、聖書の各節は諳じている。 ありゃ、こんなのが出てきたら「げんなり」しそうなもんだけど、 そうならないのは何故?まあ、Forsyth さんの筆力という事にしておきます。 話もとっても面白かった。弓矢と石斧と古いライフルで最新の 「テクノロジー」に立ち向かって互格以上に渡り合う。 幸運に恵まれすぎているとは思うけど、白ける程ではないし、 とにかく痛快。(ネタバレになるけど)、 気に染まない結婚に臨む花嫁を、救出する (強奪する) シーンでは思わず快哉を叫んでしまった。 それにしても、アメリカ人って、このモティーフがよっぽど好きと見える。あ、 Forsyth さんはイギリス人か。 でも、最後が「伝奇もの」になってしまったのは残念。 他にも「収めよう」が有ったと思うのですが。The Miracle とは全く逆に振れているのに、同じように「がっかり」してしまいます。


城 繁幸 「内側から見た富士通 『成果主義』の崩壊」 光文社 2004

2/20/05 (Sun)***--
この頃、「経営」に関する本をたまに読むようになりました。 「上司は思いつきでものを言う」が、かなり面白かったので、 二匹目のドジョウを狙うようになったのかも。 しかし、まあ、 この分野にははなかなか居ないですねぇ、ドジョウ。 成功した社長さんの自慢話 (例えば、今野耕作「まずは話を聞こうじゃないか」かんき出版) とか、あれこれの経営手法・哲学を列挙して終るもの (例えば、大沢武志「経営者の条件」岩波新書) とかが多くて、うーん、何か違うよなぁ、という感じです。 (何を期待してんだか:-)

それらに比べると、 本書は著者が自ら体験してきた内幕を赤裸裸に述べているだけに、 緊張感というか臨場感が違います。 それも、全く無関係な別の世界のできごとではなく、 これまでにも、雑誌や新聞にその「現象」の一部 (前社長の暴言等) はとりあげられているので、 それらを御自身の体験に織り混ぜて語られると、 そのうち全くの他人事とは思えなくなり、ついで、「へー、そうだったのかぁ」 と感心・納得してしまうのでした。

ただ、内情を暴露している時の迫力は、話が「分析」に移ったり、 対策を提言する段になると、ちょっと色褪せます。 (橋本さんの「上司は思いつきで…」は、分析までは冴え渡っていましたから、 こちらは鈍るのがやや早いと言えるかも。) それにはきっと、著者が富士通しか見た事がなく、 その問題点を客観化する視座を持っていないという事もあるのでしょう。 たとえば、著者の管理職層一般に対する批判も、「客観性 (たとえば上司なんてどこも似たようなものかも知れない) 」 を欠いている上に、 「著者の社内での立場 (若いというだけで安い給料でこき使いやがって)」 というバイアスがかなりかかっているように思えます。が、同時に、 それがこれまでともすれば見過されてきた 「トップや管理層の評価者としての能力をまず疑え」 という視点を与えたのではないか、とも思えます。

しかし、実態を暴露する事にこれ程のインパクトがあるとは…。 分析がしょぼくても、対案が無くても、これだけで十分価値が有りますね。 富士通社内に居る人でも、人事部の意図や身贔屓はさほど見えないので、 かなりショックだったのではないでしょうか。 また、他の会社の社長さん方は、御自分の会社の「成果主義」の実状を、 急いで点検しはじめたりして。 この本にはそいう意味で類書にない「重さ」が有ります。 こういう本が沢山出てくると、 日本の企業も風通しが良くなりそうな気がする。 ここでもやはり、若い人達に期待すること大です。

ところでこの本、内容はともかく、体裁がいまいち、と思えました。 例えば、本文が

無能なトップ top management とそれに群がった管理職が、この制度を使いこなせず、社員の士気 morale は低下。社内には、不満 complain と嫉妬 jealousy が渦巻き、自殺者まで出るという惨状が出現してしまった。

のような具合。苛立たしい事この上ない。 最初は、なんて馬鹿げた事をやるんだこの著者は、 と思いましたが、良く見ると、光文社ペーパーバック (叢書の名前) のポリシーらしい。 常に新しい事を模索するその心意気は買いますが、 でも、これだけはすぐに止めたほうが良い。 読みにくいばっかりで、良い事はひとつもない。 ルビのようなもの、とも考えられるけど、 もしそうなら、英語を併記して初めて意味が通じる言葉だけに限定して欲しいし、 敢えて付け加える場合でも、せめて英語の品詞を元の日本語に合わせて欲しい。 (ルビのはずの英語の単語の上に、カタカナでさらにルビを振るに至っては、 何をか言わんや…。) いずれにしても、こんなものが「日本語表記の未来形」 だなんて、とんでもないと思いますよ、光文社さん。

小説:Michael Crichton, State of Fear, Harpercollins, 2004

1/4/05 (Tue)***--

Time Line は「さすが」と思ったけど、Prey では首を傾げてしまったので、この最新作には「名誉挽回」 を期待したのですが…。

しかしながら、読後感の第一は「何これ」。 小説じゃなくて、 科学読物というかエッセイにした方が良かったんじゃないの? という感じです。 いつもながら、膨大な資料を渉猟して独自の見解を構築する点には、 ただただ敬服せざるを得ないのですが、 今回はそれがちゃんとストーリー (小説) になってないような気がします。 Prey の Micromachines はかなり消化不良でしたが、それでも、 とりあえずそれがプロットに組み込まれてはいました。 しかし、この最新作では、 「環境問題の『講義』の合間に派手なアクションが挿入されている」 という感じで、なんともおさまりが悪い…。

その「講義」には、目からウロコの事も多いのですが、 にわかには信じ難い事もままあります。 Prey で Crichton さんの「科学技術に関する常識 (センス?)」に疑いを持ってしまった、という事もあって、 余計にそう思えるのかも知れません。

私にとっての最大の「なんだかなぁ」は、 京都議定書をアメリカが批准していない事を、 あっさり擁護してしまうところ。根拠は、その効果が小さい (0.04 ℃) から、だそうな。しかしアメリカ政府 (Bush 政権) はそれが理由で批准を見送ったんだろうか。 また、各国にきちんとそのように反論したんだろうか。 私には、Crichton さんが、幾つかの論文 (しかも、オリジナルな論文ではない Science 誌の記事を含む) を無批判に絶対視しているように思えて、 あまり説得力が感じられません。 Crichton さんが批判している「俗流環境保護派」と同じ轍を踏んでいるような気がします。

もうひとつの「なんだかなぁ」は、環境問題への取り組みは、 つまるところ「改心した (目覚めた) 大金持」がイニシアティブを取ることでしか改善できない、 と言いたいように見える事。本当にそうかねぇ。Gulfstream Environmentalist (自家用ジェットで化石燃料を湯水のように使いながら、 環境保護を説く輩) に、そんなに期待できるもんだろうか。

以上は「講義」への疑問。 一方のアクションの方は、相変わらずリアルで、 はらはらどきどきせてくれます。でも、ちとマンネリかな、とも思えます。 例えば、凖主役の女性がクレバスに落ちた主人公を救う (ロープで引っぱりあげる) のですが、なんだかこれ、(ちょっとありそうもない事は惜いても) The Lost World を彷彿させる。なにしろ、その女性の名前が Sarah なんです。

それと、○○さんの失踪とその後のそれにまつわる展開に、 お話として一体どういう必然性があるのか、どうしてもわからない…。

しかしそれでも、スマトラ沖地震の津波の威力を見た後だから余計に、 この本から目を逸らす事ができませんでした。 筆者はこの日のある事を予見したのか、単なる偶然か…。 スリランカの津波のビデオを見せられるより、 はるかに恐怖を感じてしまう。Crichton さんの筆力はやはり素晴らしい。

うーむ、そしたら星三つは辛いかなぁ、と思うけど、 期待が大きかった分点が辛い、という事にしておきます。


小説:Patricia Cornwell, Postmortem, Avon Books, 1991

12/11/04 (Sat)****-

Cornwell さんの小説は封印する、などと書いていながら、また読んでしまった…。 しかも、一度邦訳で読んだ第一話。 なんでこうまで拘るのか自分でも不思議なんですが、今回に関しては、 「そもそも、第一作のどこがそんなに気に入ったのか知りたい」 という事なのかも知れません。 それにしても 10 年前とは言え、翻訳で読んだはずだのに、細部はおろか、 ストーリーさえよく覚えていないのには自分でもびっくり。 という事で、また新しく楽しめました:-p

楽しみながらも、「なんで嵌ったのか」 という疑問に答えるべく、一種冷静な観察もしていて、まあこじつけですが、 「女性専門職という見地からみた (市当局上層部の) 権力闘争」とか、 「その時点での最新のコンピュータにかかわる話題」とか、 「リッチなキャリアウーマンの私生活の詳細」とか、 「9 歳の女の子 (Lucy) とのやりとり」 等が面白かったのではないか、と想像しました。 言いかえれば、 話が作者の身近な話題にとどまっている間は結構面白いのだと思います。 だから、その後の作品で「国際犯罪組織」とか「テロ組織による原発占拠」 なんて話に手を出さなきゃ良かったのに、と思うのですが、 シリーズが長く続くとそうも言ってられないのでしょうか。

という事で、今度こそ、Cornwell さんはしばらく「おあずけ」にします。


新書:なだ いなだ 「神、この人間的なもの」岩波新書、2002

12/5/04 (Sun)*****
12/21/04 (Tue)改訂

なださんの本に最初に出あったのは、学生時代に、同じく岩波新書の 「権威と権力」を読んだ時だったと思います。 その時の感動をいまだに覚えています。 平易な言葉で、自明でなくかつ説得的な議論を展開する。 「自分の頭で考える」というのはまさにこのような行為なんだ、 とひたすら感心したものでした。

とはいえ、その後なださんの本を沢山読んだという訳ではなくて、 岩波新書「民族という名の宗教」とか、岩波の「古典を読む」シリーズの 「江戸狂歌」 くらいしか印象に残っていない。前者は何と 10 年前。 「権威と権力」と同じくらい平易な語り口でいながら、すごく過激。 しかし記憶がおぼろげになってきたので、また読み返そう。 後者は、今でも時々読み返しては独りでにやにやしています。 アルコール依存症の治療に携っておられたこともあって、 酒飲みにまつわる楽しい狂歌がたくさん載っているのです。

さて、この最新作。前書きにもあるように、 長い間暖めてきたテーマのようで、「権力と権威」をさらに凌ぐ過激さ。 釈迦やキリスト、 マホメットのやった事の意味は、部族抗争と呪術の支配する闇から、 人の心を解放した事だと喝破し、既存の大宗教は、いずれも、 その教祖達が生涯を掛けて前に進めた地点から、2000 年かけて、ひたすら後退りしている、 と言いきっている。(ローマ法王以下、 宗教人達が聞いたらただじゃすまないぞ…、みたいな。)

その言い分は、しかし、確かにあたっているように私には思えます。 なださんは、9.11 の報復を誓っていきりたつブッシュさんの横にキリストを置いてみると、 「『右の頬を打たれたら』というイエスは、まったく現代的だった」 とおっしゃる。 現在の教会が何を言うかではなく、 キリストその人がその場面に立ったとしたらどう言うか (原理主義ならぬ「原点主義」) を考えるなら、ブッシュさんの言ってる事はそれとはまさに正反対。 部族抗争の闇の中への「2000 年の後退り」の、まさに最後の仕上げなんじゃないでしょうか。

著者にしてみれば、変なところに感心されているのかも知れないし、 自分でも、 書かれてあることをこれでうまく要約できているような気がしないのですが、 私には一番印象に残った箇所でした。 とにかく「考えさせられる本」です。

ただ、「権威と権力」から 30 年。この本がもう少し早く出ていたら、と思います。 もちろん、なださんにそんな義理はないのですが、 宗教には個人的にも色々考えさせられる事があり、 その際にこの本が手許にあれば勇気百倍だったかも、という気がしました。 なださんをもってしても、このような「意見」を開陳するには、70 歳を待たなければいけなかった、という事でしょうか。

最後に。 この本を読み終って、カバーを戻そうとして、 ふと「帯」が目にとまったのですが、 なんと「神は存在するのか」などとあります。 うーむ。まあ、そういう話題が全々無いかというと、 数行はあるようですが、徹底した無神論者 (と思われる) なださんが、そんな事を延々と論ずるはずもない…。 要するに、このキャッチフレーズは、殆ど本の内容と関係ないんですね。 「バカの壁」の帯にはまんまとひっかかってしまって、業腹だったけど、 少なくとも、本文の引用ではありました。しかるに、これは…。 しっかりしてくれぃ、岩波書店。


小説:Patricia Cornwell, Blow Fly, Time Warner Paperbacks, 2004

9/12/04 (Sun)**---

Key Scarpetta シリーズも、これで 12 冊目、よく続いたものです。1990 年の第一作 "Post Morten" から、10 年間毎年一冊づつ出している。しかも我ながらよく付き合ったものですが、 その 10 冊全部読んでいる。(最初の二冊は邦訳で。)他にも、"Hornet's Nest" から始まるシリーズにも手を出しているので、私は、Cornwell さんにとっては上得意という事になります。

しかし、実は "Black Notice" を最後に「意識的に」読むのをやめたのでした。 「意識的にやめる」とは変な言い方ですが、 ともすれば「お約束」みたいに彼女の新刊を買ってしまいそうになるのを、 「いやいや、やめておこう」と自分を抑える、という位の意味です。なぜかって? 最初の方はそこそこ面白いのですが、読み終ってから「いまいちだったなぁ」 という事が続いたから。

それから大分経ったので、何冊か見逃したかな、と思っていたけど、 Cornwell さん、"The Last Precinct" 以後、3 年も Scarpetta シリーズの新作を出していないのでした。 だから、私が読んでないのは、"The Last Precinct" だけ、という事になる。何だか折角の「決心」が無駄になったような、 あまり「遅れ」をとらなくてよかったような、変な気持です。

で、三年あまりの「禁」を破って買ったこの本ですが、 感想を一口で言えば、やっぱり「いまいち」。

(いつもながら) プロローグは良いんですよねぇ。 意表を突いていて、ドライで、しかも心理描写は的確で…。 特に「ハリー・ポッター」の直後のせいか、その「えげつなさ」が新鮮。 (拉致殺人犯が犠牲者を心理的にいたぶる場面とか、 死刑囚達の行状の数々は「新鮮」なんてものではないですが。) でも、その後のストーリー展開がいかにも…なんです。 まず遅々として進まない。全部で 500 ページのうち、300 ページあまりを読んだところで、 「ほとんど展開が無いけど、ちゃんとクライマックスに辿りつけるんだろうか」 という (いつもの) 懸念が頭をもたげてくる程。

で、その懸念は最後まで消えません。 最後には何とかクライマックスらしきものに達っするのですが、 なんだか、とてもちぐはぐ。例えば、主な登場人物達が総出で Lucy のヘリに乗って出撃するんだけど (なんで、皆で出掛ける必要が有るんでしょうね) そのヘリを撃墜されるなどの「大立ち回り」 のあげく、やっと脇役のワルを一人屠るだけ。後は皆、XX さんが面倒を見る (やっつける) のですが、そこはサラっと流されてしまう。

もう一つの不満は、(いつもながら) 布石がうまくプロットにつながっていない事。 延々と続く「狼男」の death row (死刑囚監房) での生活の記述は、事も無げな (思いつきのような) 脱獄でかろうじてクライマックスに継がっていくのですが、 でもその「狼男」は、その後の話には出て来ず、結局 XX にあっさりやっつけられてしまう。

それとは別に、Benton Wesley が生き返ってしまったのも「なんだかなぁ」です。私の読んでいない前作 "The Last Precinct" で既に生き返っていたのかも知れませんが、 それでも、「そんなのありか」という気がします。だって、"Black Notice" で彼が「死んだ」時の Scarpetta さんの悲嘆ぶりはあまりに大仰で、読んでる方がいい加減辟易する程でしたもの。 なのに、あっさり「実は生きていた」なんて言われると…。 何より、そもそも Shadonne 一家の「犯罪組織」壊滅のためにそんなに手の込んだ事をしたはずなのに、 そっちはどうなったの?

という事で、やっぱり「なんだかなぁ」だったので、 (少なともしばらくは) Cornwell さんはまた封印する事にします。


小説:J. K. Rowling, Harry Potter and the Order of the Phoenix, Bloomsbury, 2003

8/25/04 (Wed)*****

前作の「思わせぶり」に乗せられてついつい注文してしまった第 5巻ですが、Amazon から届いた時に開梱してすぐページをくってみたのが運の尽き。 もう止められなくなってしまいました。 勿論、寝食を忘れて一気に読んだわけではなく (もうそんな事はやろうったってできない)、 十日ばかりの間、空いた時間は全部これを読むのに当てた、という意味ですが。 それでも、このごろはこんな事は滅多にないので、星五つ。

そういう意味ではこの巻は確かに凄い "page-turning fun" です。 が、それが「滅茶苦茶面白い」とか「大傑作」とは必ずしも同じ事を意味する訳ではない、 と認識させられる本でもありました。 言ってしまえば、ぐいぐい引き込まれて、先を読みたくなるけど、 読後感はあんまり芳しくない…、みたいな…。

まず、Harry Potter が以前の「健気な良い子」ではなくなってます。 性格が変ってしまったかのようです。成長の一過程なのか? (そう言えば、うちの子達も中学生の頃は暗かったし:-) 逆境にある事が長すぎたのか? いずれにせよ「なる程、こういう変化も有り得るかも」 という範囲を越えている気がします。 子供扱いされる事にやたら腹を立てて、誰彼なしにおらびあげる、 のもそうですが、冒頭の Dudley を弄る場面なんかは、読んでいて「かなり性格悪いな、こいつ」 という感じさえ持ちました。

話の展開・設定に腑に落ちないところがいろいろ有りますが、 これらの疑問が全部最後の Dumbledore と Potter の会話で氷解したら、よくできたミステリーみたいで格好良かったのですが、 そううまくは行ってないように見えます。

それと、話が長すぎるような…。 私が買った版は、これまでの巻より判型が若干大きくなり、 文字も小さくなったので、ページ数は前作より減ったものの、 語数は大幅に増えているに違いない。(前作と同じ判型のものは、 950 ページもある。) 本筋にあんまり関係ないエピソードが、あちこちにちりばめられている、 という感じです。それぞれは面白いので引き込まれはするのですが、 あとで振り返ると「なんだったんだ、あれは?」みたいな…。

それでも、やはり個々のエピソードは面白いし、 登場人物のキャラクターも際だっている。Ron や Hermione なんかは、私にとっても旧知の友人のように思えるし、そのせいか、 ある程度ワンパターンになってるけど、それでもなぜか (それだから?) 味が有る。 しかし、まあ、何と言っても圧巻は Umbridge さんでしょうね。 ご丁寧にも私の嫌悪感のツボを的確に突いてくれる、すごい「いけ好かん奴」 です。 例えば、自分自身は職能上 (教師として、という事ですね) は明らかに経験不足かつ能力不足なのに、同僚の教師を無遠慮に評価する (時にはおおっぴらに侮辱する)。 実際的でそれゆえに子供達にも人気の有った科目を、安全第一と称して、 つまらないものにしてしまう (自分に教える技量がないから?)。 何より、上司 (魔法使いの国の首相) の政治的な立場 (現実を無視した自己欺瞞・保身から来ている…) を、何が何でも押し通そうという傲慢さ、等々。 これでもか、というくらいカリカチュアになっているんだけど、 同時に妙にリアルでもある。作者の Rowling さん、身近に余程憎らしい実在のモデルが居るのかな?:-)

それはそうと、彼女を見ていると最近のある身近なでき事をどうしても思い出してしまいます。 都立高校の卒業式にわざわざ出向いて、先生方の行状を見張る方々が居たらしいですが、こんな事を連想してしまうのは私だけでしょうか:-p

ところで、我ながらこればっかり言ってるような気がしますが、 結局のところ、我 Snape 教授は一体何なんでしょうね。 不死鳥の騎士団でついに本領発揮か、と思いきや、やっぱり Sirius や Potter を目の仇にしているし、やっぱり Slytherin の生徒達を「えこひいき」するし…。 なんか、ちっともはっきりしないんですが。 Potter の父親や Sirius にひどく苛められた事を根にもっているだけだとしたら、あまりに情無い…。 まあ、そういう事なのかも知れないけど、ずっと肩入れしてきた身としては、 それで終って欲しくない、という気持が強いんです。 6 巻では種明ししてくれるんでしょうね、Rowling さん。


小説:J. K. Rowling, Harry Potter and the Goblet of Fire, Bloomsbury, 2000

8/1/04 (Sun)***--

長い! 800 ページ近くもある。出発までに 1/3 近く読み終っていたのに、 それでも海外出張の間に読み切れなかった…。 持ち帰ると、通勤電車の中で読むのがちょっと難しい (厚すぎて。)

裏表紙の The Times の批評の一部に "... full of delicious parodies of our own world, ..." とあって、 私は自分がなんでこのシリーズに惹かれるのかを言い当てられた気がしました。 そうなんですよね、「うんうん、あるよなー、こういうの」 を荒唐無稽なはずの魔法使いの世界で見付けて喜んでいる。 例えば、受け手の本能的な差別意識に阿るような報道と、 それに煽られた匿名の脅迫・嫌がらせメール、とか。 (ただこれは、このところの日本の騒ぎとあまりに符合するので、 いやーな気持がしましたが…。) それにしても、こうまで図星を指されてしまうと、ちょっとがっかりするような。

がっかりと言えば、この巻の一番根っこのプロットが「なんだかなぁ」でした。 魔法の世界なので、「こんな事ぁ有り得ねぇ」 という批判はかなり抑え気味になってるはずなんですが、 それにしても…。そもそも全体の話が Harry を拉致するという陰謀を中心に組み立てられているんですが、 これが「なんぼなんでも無理があるよなぁ」なんです。 他にもっと容易で確実な方法がすぐに思いつく…。

しかし、それでも読むのを止めてしまわなかったのは、 個々のエピソードや心理描写が面白いから、なんでしょうね、きっと。 なんせ 11 歳の Ron と Harry のやりとり (第一巻) にカタルシスを感じたくらいなんだから、思春期に入ったふたり (と Hermione) の心理描写となると身につまされる… (まあ、私がガキっぽいと言う事なんでしょうね。)

で、長い長い第 4 巻も終るのですが、終り方だけはこれまでと様変りです。 良く言えば「問題は何も解決せず、脅威は増すばかり…、なので、 次の巻が待ち遠しい」構成なのですが、こうまで思わせぶりがはなはだしいと (その狙いが露骨だと)、 フラストレーションが溜ります。等と言いつつ、まんまと 「その手」にひっかかってしまった私は、次の巻を Amazon に注文してしまいました。 だって、Voldemort が完全復活して、Sirius Black と Snape が秘密の任務に赴いたのでは、続きを読まない訳にはいかないじゃないですか。 しかし…。

う、次は 900 ページかぁ。なんか、もう一冊にするには無理があるんじゃないの? え、Children's edition と Adult edition がある!? 区別が有る事を知る前に、Children's edition の方を注文しちゃったけど、まあ私にはそれくらいが丁度良いか。


新書:橋本 治 「上司は思いつきでものを言う」 集英社新書 2004

6/13/04 (Sun)****-

この本の「あとがきのあとがき」によると、 著者は一度もサラリーマンをやった事がないのだとか。 とすると、出版社の自称「お出入り業者」(作家の事) をやってきた経験だけから、これを書いている訳だ。 で、四半世紀ひたすらサラリーマン(その後半は「末端上司」) をやってきた私には、 「そんなんで、判ったような事を言ってもらっちゃあこまる」 と言いたいところですが、一方で、 「ちょっと離れているからこそ客観的にものが見えるのかも」とも思えます。

それにしても、これが本当だとすると、「営業の仕入課の若い方」 (担当編集者)が、「会社というものの内情」 の唯一のソースという事になるので、彼の上司(編集長)さんたちは 「俺の事かも」と戦々兢々になると同時に、 「こんな事ばらしやがって」と、 著者担当の若手編集者につらく当ったりしていないか心配。 それはともかく、「こういう本を書いてみよう」と思いたったのは、 これらの「仕入課の若い」方々のグチを聞いていた時であろう事は間違いないところでしょう。

という訳で、微妙に「ずれ」ていてながら、一方で妙に普遍性がありそうな 「上司の習性・言動」(と、 それに振り回される「部下の心理」)が綿々と記述され解析されます。 「ずれ」ているだけでなく、「官僚制の確立と大衆化」 から説明する日本史から、日本における儒教倫理の盛衰まで、 良く言えば談論風発、有体に言えば支離滅裂なのに、何故か納得してしまう。 というか、このような「理論」はともかく:-) 九割がた憶測と伝聞で書いてるはずの「上司の心理」が、 自分の経験と実に良く合うんですねぇ、これが。 特に「故郷(現場の事)が懐しい上司の場合」のあたり。 この推理・類推の深さ的確さが、 冗談まじりに開陳されている著者の歴史認識に由来しているとしたら、 もうこれは恐れ入るしかないし、また例えば一見 「ほんまかいな」と思えるような「官僚論」も、 「へー、なる程」と納得させられてしまいます。 (「教養」とはこのように使うものなんですねぇ、立花さん。)

しかし「世界を解釈するのと変革するのはまったく別の話」なのが世の常。 解釈(解析)している時は冴えわたる筆致も、「ではどうするか」となると、 「えーっ!?と言ってあきれてみせろ」としか言ってくれない。 (まさに「えーっ」ですね。) しかし、既に著者の術中に嵌っているらしい私は、 なかなか良い手かも知れない、と思えてきた。 さっそく明日から実行してみよう。


小説:J. K. Rowling, Harry Potter and the Prisoner of Azkaban, Bloomsbury, 1999

5/27/04 (Thu)***--

映画の封切りが近づいてきたためか、本屋さんへ行くと、 このハリポタ第三巻が嫌でも目に入るようになってます。で、ついつい…。 買ってみると、 TOEIC レベル 730 点などと書いてある。 うーん、自分がちょうどそれくらいのスコアだった頃を思い出しても、 それはちょっと楽観的すぎるような気がするなぁ。 まあ「レベル」の意味にもよるのでしょうけど。

さて、本題。星三つにするか四つにするか大分迷いましたが、 (どっちにしても大勢に影響は無いのですが:-p)三つにしました。 第二巻が見事に二年目のジンクスを免れているのに較べて、 第三巻はさすがに「マンネリかなぁ」の言葉が頭をよぎる事もあったので。

例えば、Quidditch の興奮とか、Dementors の不気味さとか、ペットが処分されると決まった時の Hagrid の意気消沈ぶり等々、記述がより大袈裟になるぶん、こちらは白け気味になる。 前の二巻は、(子供向けだというのに) 抑えた語り口なのにこちらが「はまって」しまう、という事があって、 とても感心したのですが、そういう「末恐しい作家かも」 という感じが、この巻では弱まっています。

それと、私のヒーローである Snape 教授が、実は (何の裏もヒネリもない)ただの「嫌な奴」だった、という事が判って、 ちょっとがっかり。それで点数が下ったのかも:-p。

それでも、やはり面白かったので、 近いうちに第四巻を買ってこようと思います。


評論: 谷田 和一郎 「立花隆先生、かなりヘンですよ」 羊泉社 2001

文庫: 立花 隆 「東大生はバカになったか」 文春文庫 2004

5/23/04 (Sun)「立花隆先生…」****-
5/23/04 (Sun)「東大生は…」**---

いかんいかん、どうも「バカ」 というキーワードに引き寄せられるようになってしまった。 それにしても、最近本屋さんの棚に並ぶ本の背表紙に、 やたら「バカ」とか「馬鹿」とか、 下品な単語が踊るようになってしまったように思う。 「『ばか』っていう子が『ばか』なんだよね、 お母さん」という、幼稚園で教わるまっとうな自制心などは、 もはや時代遅れなのでしょうか:-)

なんて言いながら、人の喧嘩を横から楽しもうなんていう私の了見も、 相当浅ましい。でも、残念ながら、期待したような喧嘩(相互批判) ではありませんでした。 でも勝ち負けで言うと、谷田氏の一方的なフォール勝ち。

実は私も、結構立花氏の本は買っていますが、 最後まで読み通したものはあまり無い。散慢で読んでられない…、 と言い切れたら格好良いのですが、自分の忍耐心が足りないのかも知れない、 等とも思っていました。 谷田さんは、そんな懸念をあっさり吹き飛ばしてくれました。 なにせ、「東大生は教養が無い」と言われた腹いせに (谷田さんは東大で理Iから文学部卒業)、 言論界の寵児である立花氏を徹底的に批判して、私に「こんな人(失礼) の本なら、まあ途中で飽きてしまって当然」と思わせてくれるのです。

「腹いせ」だなんて、勝手に不純な動機を示唆しては失礼なくらい、 谷田さんは抑えた筆致を保って、しかし痛烈で的確な批判をしています。 曰く、

等々。これは「等々」というのもおこがましい程、 批判のほんの一部でしかくて、谷田氏の指摘は本当に多岐に渡りますが、 どれもこれも的確な批判になってるんですね、これが。ただ、 一点だけ立花氏を弁護すると、理系の人でも「ウラシマ効果」 をきちんと説明できる人は少ないと思いますよ。とは言うものの、 「自分がよく知らないのに、必須だなんて言うな!」 というのには全く賛成ですが。

中でも圧巻なのは、立花氏が「人工知能学会誌」 で発表された文章を要約している個所(p. 65)で、

AI は、人間並の知性を持たなくてはならない。そのためには「学ぶ意欲」 が必要である。AI に「学ぶ意欲」を持たせる事は可能である。 なぜなら、「人間の子どもならばみんなやっている」のだから。そして、 人工知能に学ぶ意欲さえ持たせれば、人間並みの知性になることできる。 そのためには「現在の研究をレベルアップしていかなくちゃいけない」。

と言ってるだけの楽観論もしくは空虚な言葉の羅列である、としている。 うーむ、確かに。こういう要約って、 よっぽど根気が無いとやれないんで、余計に感心してしまう。 で、これの文体を内容相応に変えて

「人工知能が人間のようになれないのは、 自分で勉強する気持がないからだと思います。 それがあれば、人間のようになれると思います。 今は、人工知能が自分で勉強する事は難しいみたいですが、 人間の子どもでもやっているんだからきっとできると思います。 だから、人工知能を研究している人はがんばってください。」
実にわかりやすい内容ではある。

とやってるところでは吹き出しました。 谷田さん、将来きっと文筆家としても大成功されるのではないかと思います。

私はむしろ、「たくさん本を読んだだけ」では、 一学問分野の方向付け(をするような新しいアイデア) を提案できるはずもない、 のが当たり前だと思います。それを「できる」と思ってしまうところ、 いやそのような無謀さはまだ良いのですが、 そのアイディアがいかに陳腐か自分で判断できないところが、 立花氏の「教養(常識)の無さ」ではないか、と。

で、立花氏の「東大生は…」ですが、内容云々の前に、 以前の著作を殆んどそのまま並べてあるので、内容が重複するのはまだしも、 一冊の本として論旨にまとまりが無いのはいががなものか、と思う。 なんだか、「なめられて」いるような気がする。 しかも、内容は大学改革に関する事が中心で、この題 「東大生はバカになったか」はいかにも「受け狙い」なのでは? これも、文庫編集部の方針か? などという私の感情的な反発はともかく、とにかく怪しい本です。

まず、私などには、何を嘆いて、何を警告しておられるのか、 はっきりしないのですが、推察するに「大学生の学力の低下」と 「教養の軽視」なんでしょうね、きっと。で、前者は、 最近の理科教育の「切下げ」によってひきおこされていて、 これによって大学教育が崩壊する、と。少なくとも、その徴候が有る、と。

ほんとなんでしょうか。私は、ウン十年も前に大学を卒業したので、 「昔はましだった」と言われると悪い気はしないのですが、 正直なところ大差は無いような…。 などという自分の狭い範囲の経験を応酬しても意味は無いので、 そこで客観的データを、という事になると思うのですが、 少なくともこの著書にはそういうデータは見当たらないようです。 唯一定量的なデータといったら、 伊藤敏雄教授の行なった調査の結果くらいのものですが、 これも「大学新入生の数量的知識がいかに酷いものか」 という裏づけにはなっても、最近酷くなった、という根拠にはならない。 昔からそうだったかも知れないのです。 (一円玉の直径が 0.1 cm だとか、5 cm などという答が数 % でも有るというのは、確かにたまげる事かも知れませんが、 私は昔もそんなものだったろうと思っています。)

要するに「こんなに酷くなっている」というけど、 その変化についての客観的な根拠は示されてない訳です。 と、同時に、それがそもそも「酷い」事だ、という根拠も無いのでは。 例えば、同じ調査を外国でもやってみて、大差があったら初めて 「これは酷い」と言えるのではないでしょうか。私のにらむところ、 米国あたりの大学の新入生に同じような調査をしたら、 もっと悲惨な結果になるような気がする。

また、百歩譲って、中等教育の理科教育の「切下げ」によって、 いくばくかの学力(知識)の低下が有ったとしても、 そもそも教える事項を減らすのだから、それはむしろあたり前で、 それによる他の面でのメリットを打ち消してしまう程のダメージが有ったら、 それで初めて「ゆとり教育は大まちがい」と言える(かも知れない)。

という事で、なにせ前提条件(現状認識)に客観的な基礎を欠いているので、 12 世紀の大学の起源から説きおこし、文部省批判にまで至る大論文も、 いずれも説得力が「いまいち」というか、砂上の楼閣というか。 (でも、大学の歴史の記述には興味深い個所もありました。)

さて、「教養」の方ですが…。 まず、こんな具合に、論の立て方が「いまいち」の人に、また、 万巻の科学関連の書物を読破しながら、 「ニュー・サイエンス」にあっさり傾倒してしまう人に、そもそも 「教養」を語る資格があるのか、という疑問はあります。

大学卒業生の教養を養う(改善する)には、 大学で(中学・高校でも)履修科目を増やすべきである、 との御意見のようですが、その一方で、 一つの事に精通する方が真の教養を得る事につながる、 とも考えておられるようです。相互に矛盾すると思いますが、 どうその矛盾を解消するのでしょうか。そもそも履修科目を増やして、 ○○学も必修、××学も必修としたら、それこそ詰め込みとなって、 どれもものにならず、結局「述語(専門用語)は沢山知っているが、 どれもきちんと使いこなせない」 立花氏のような学生を量産する事になるのではないでしょうか。

また、少人数教育が理想とありますが、これには私も大賛成。 ただし、これにかかるリソースや費用をどうするのでしょうか。 少数のエリートだけに少人数教育を施すのか、それとも、 現在の社会的リソースの分配を大幅に変更して、より多数 (全員?)にそれを亨受させるのか。いずれの選択をするにしても、 それに対する社会的合意をどう形成するのか。それこそ哲学的、 政治的思考と決断が要るのではないでしょうか。 例えば東大が「少人数教育をやるので、教師をあと 1000 人ばかり増やしたい」と言ってみたところで、 そのまま希望が通るはずは無いですよね。 そのあたりに関する提言は無いのでしょうか。(私には、ここらへんこそ 「教養」の出番だと思えるのですが。)

あと、入試科目が減ってきているのは、 十八歳人口が減っていることで、大学が学生集めのために彼らに「媚びて」 いるのだ、という主張をされています。そうかなぁと疑問に思いますが、 それはともかく、一方で、 「どのような学生を受け入れ、どのようなカリキュラムで何をどのように教えるかは大学のみが決定すべき事であって、国家が容喙するべき事ではない」 とあります。そこへ、立花氏は自らは容喙して「媚びるな、入試科目を増やせ」 と主張する訳ですが、 これは「学生に媚びている大学人」 に聞き入れてもらえると信じておられるのでしょうか。 何だか、見当違いの方向に意見しているような気がします。

これらの事は、言ってしまえば、現場の先生方や関係者からすれば、 「そういう議論や、選択肢が有る事くらいわかってるさ。 具体的にどうする事が可能でかつ効果的なのかを模索してるんじゃないか。」 もしくは、「その手段の制度的、 経済的な裏付けが取れないんで悩んでるんじゃないか。」てなもんでしょうね。 もっと言うなら、 「世間の注意を引いてくれるのはありがたいが、 素人の思い付きでひっかきまわさないでくれ」と言うところでしょうか。

しかし、とにかく、こんな粗雑な意見を下敷きにして、 大学(学制)改革が始まってしまったら大いに困る、とは思います。 同時に、谷田氏が立花氏の理系の本を批判したように、 このような大学論・教養論他を批判する大学人は居ないのか、 という疑問も持ちました。 谷田さんは、立花氏がアカデミズムからは無視されている (ので批判を免れている)とおっしゃっていますが、 立花氏の「とんでも」科学論を無視するのは見識だとしても、 この本を無視(容認)したら、 世間は「大学の先生方は、大学のあり方なんてちっとも考えていないんだ」 などと誤解しませんかね。他人事ながら心配です。

最後に。 これも「先生に言い付けて」いるみたいで心苦しいのですが:-) 立花氏は

私は世のいわゆる「教養論」のほとんどは、 昔をなつかしむジイさんたちの繰言にすぎないと思っている。 論者のほとんどは「現代的な教養」(… エピステーメーとテクネー。…) という観点からすると、彼ら自身はほとんど教養ゼロ(…略…) としかいいようがない連中で、「現代的な教養」 を論ずる資格がない人々だと思っている。

なんて吠えていますが、こんな事言わせておいて良いのでしょうか:-)。 等という冗談はともかく、「教養」を云々する程の人は、 もう少し謙虚であって欲しいと思うのであります。あと、(これに限らず) 衒学趣味をやめて(せめて隠そうとして)欲しい、とも思う。 エピステーメーとテクネーなんて聞き慣れない(使い慣れない?) 言葉をなぜ使うのか? 世間に普通に通用している意味からすると、立花氏の定義は単純に過ぎるし、 単に「知識」と「技」と言いたいのならば、初めからそう書けば良い…。 って、まあ、これも谷田氏による批判の二番煎じですけどね。 また、立花氏の「現代的教養」を「ジイさん達の繰言」と分ける要素は、 例えば「調べて書く能力」や、「分子生物学」、「脳科学」らしいのですが、 それらは科学ジャーナリスト・評論家としては必須の項目としても、 本当に理系・文系を通じての教養の基礎になり得るものでしょうか。 かなり我田引水気味の、バランスを欠いた意見としか思えません。

とにかく、 あれやこれやで、立花氏に「(一般)教養」は似合わない、と思います。


新書: 高島 俊男 「漢字と日本人」 文春新書 2001

5/5/04 (Wed)****-
5/13/04 (Thu) 改訂

養老教授の本はとても酷かったけど、しかしそれはまあ例外だろう、 と思ってました。 が、どうも世の中には、 そういった類の本が沢山有って、そのカテゴリーに名前までついてるらしい。 曰く、「と本(とんでも本)」、「あ本(唖然本)」等等。おお成程ね、 みんながみんなその手の本に無批判なわけじゃないんだ。 それなら、新聞や雑誌他の批評欄は、 もっと「これは『と本』だ!」と正面切って言って欲しい。 そうでなくては、「と本」や「あ本」の氾濫が防げない。 「アホな本は取り上げない」のも見識かも知れないけど、評判になったら、 敢えて批評して欲しいものです。

でもまあ、おかげ様で、読んでいて「あれっ」という箇所が出てきた時、 自分(の頭、知識、集中力)が悪いんじゃなくて、 本の方が悪いんじゃないか?とより安易に疑えるようになりました:-)。 また、昔読んで印象に残った本を批判的に読み返す事が多くなりました (何故か新書が多い:-) 。幸いにして、 これまでの再検討の範囲では、「と本」にだまされていた、煙に巻かれていた、 といういう例はそんなに多くはなさそうです。

今思えば、山本七平 「ユダヤ人と日本人」で、既にかなり耐性ができていたのかも:-) この本も、事実関係が徹底していい加減、 かつ言ってる事が(思わせぶりなばっかりで)ちっともわからんかった。 言わば「とんでも本が大ベストセラー」のはしりか。 (で、納得できないのは自分の不明のせいだと信じていた。) しかし、朝見定雄氏が「にせユダヤ人と日本人」 で徹底的に批判・論破しているのを読んで、目が覚めました。 「なぁんだ、事実に即していない上に、自己矛盾していることを言ってるから、 『わけわか』だったのね。」

高島教授のこの本も、そんな「再点検への衝動」 のせいで再読した本のひとつです。 文体が不統一なせいか、格調が高い、とは言えないと思いますが、 内容はそれこそ目からウロコの連続。何より、「漢字かなまじり文」 を、無批判に肯定するのではなく、また、それを「即ダメだ」 と断じるのでもないところに感銘を受けました。 教授の主張は明解で、私なりに要約すると

  1. 漢字は日本語にとって「やっかいな重荷」。 (まったく体系の違う言語(中国語)のための文字を採用してしまった。)

  2. 無闇に字音語(漢字を思いうかべないと意味が分らない単語) の造語を作ったため、その重荷がさらに重くなってしまった。

  3. しかし、我々にはそれとなんとかやっていくしか道は無い。 (漢字から全く切り離されたら、日本語は死んでしまうか、 幼稚化するだろう。)

  4. ただ、現状は「漢字制限(廃止)」 の過程の中途半端なところでとどまっており、
    • 新体漢字は正字に戻すべき(「仮定」を「假定」に、等)

    • 和語はできるだけひらがなで書く。(但し、「山」「水」「人」 等は、漢字で書くのもやむなし。)

    • また、和語の「とる」は「とる」で良いのであって、 「取る」「撮る」「採る」などと書き分けようとするのは、 無意味。

    • まぜがき(「だ捕」「り患」等)は字音語の意味を無くするのでやめる

    などの改善をすべきだ。

最初の三つ「漢字観」については、 私は全く異論のない程すっかり感化されてしまいました。 (漢字を全廃しようなんてとんでもない。) しかしながら、日本語をどう書くか、という「今そこにある問題」に関しては、 あまりすっきり納得できません。

正字(体)のさまざまな「合理性」 については、私も「成程」と思いますし、それを知っていれば、 古典を読むのに有利だとも思います。しかし、 それらは現状を敢えて変える程のメリットでしょうか。「仮定」を 「假定」と書くようにすれば(そのように教育されれば)、初めて「休暇」 という言葉に出会った時「きゅうか」と読める確率は上るかも知れませんが、 そういう機会がそれ程多いとは思えないのです。むしろ「かていの話」 と言われた時、その場合において「過程」でも「課程」でも「家庭」でもなく 「仮定(假定)」という概念なんだと了解できる事が重要なのであって、 実際の表記が「仮定」でも「假定」でも大差ないのではないでしょうか。

言い換えると、話を聞いている人が「今は『仮定』の事を言ってる」 と判断するとき、漢字を思い浮べているのではない、のではないでしょうか。 同音異義語というのは、どんな言語にも多かれ少なかれ有るので、 ヒトの脳にはそれを区別する機能が備わっていていて、 「仮定」か「家庭」かを区別する時は、(漢字を意識する事なく) 「仮定」という概念を選び取っているのではないかと思います。

和語はできるだけひらがなに(「あて字をやめる」)、 という点については、原則そうだと思いますが、 それをそのまま実行したら、 長ったらしい上にとても読みにくいと思います。 いや、実はこれも著者は先刻承知で、だからこそ「字もやさしく、 またその意によってあてている」「山」等は、 漢字で書く事もやむをえない、とおっしゃっているのでしょう。しかし、 ここで早速どういう基準で、という問題が出てきます。例えば小学生には (私にも)どの和語を漢字にして、どの和語をひらがなで書くべきなのか、 区別がつかない。そもそも、どの語が和語で、 どの語が漢語なのかよくわからない。(例えば「がんばる」は和語か?) であれば、「漢語は漢字で、和語はひらがなで」という 「美しいが実行困難な原則」に依るより、 教育漢字の訓が宛てられる場合は遠慮なく漢字を使って、 簡潔で早く理解できる文章を書く方が合理的だと思います。

要するに、戦後の教育で育った私は、(著者が揶揄されているように) 「現状が丁度良い」と思っている一人なんですね。 だから、著者がしばしば批判なさる現行の新聞の表記の方が、 この本のより快い。だから、著者が提唱される変革にはあまり乗り気ではない。

ただ、「まぜ書きをやめよう」に関しては、著者に全面的に賛成。私は 新聞の記事で良く見る「まぜ書き」 はなんだかみっともないな、くらいの認識しか無かったのですが、 「字音語は漢字を連想できないと意味が無い」と言われると、なる程、 これは、みっともないという以上に、理解を妨げているんだな、 という気がします。 しかし、「り患」を「罹患」、「だ捕」を「拿捕」を書くべきだ、 という事になると、漢字の使用制限を緩めないといけない、という事になる。 私は緩めても良い、と思います。必要ならば、ルビを振れば良いのだし、 活字の種類がやたら増えてしまう、という困難ももはや過去のものでしょう。

そうなると、今度はやたら難しい言葉(漢字)を使う人が出てくるでしょうね。 「国家ノ須要ニ応スル」とか「学術技芸ノ蘊奥ヲ攷究シ」みたいな:-)。 そういう人には使わせておけば良い、と私は思います。 著者もおっしゃるように「難しい漢字をやたら使いたがるのは、 教養(内容)が無い証拠」なので、そういう認識が広がれば、 おのずと淘汰される(んじゃないかな。)

という事で、漢字(を初めとする日本語表記)を当面どうするかについて、 深く考えさせられる本ですが、それと同時に、 いくつかの逸話も、すごくインパクトが有りました。 特に、戦後の国語審議会を牛耳ったカナモジカイの松坂忠則なる人物の言動。 なんで、こんな人物が実権を握り、 空恐ろしいような改革を推し進める事が許されてしまったのか。 私は「現状が丁度良い」と思ってしまう御都合主義者だけど、 その「丁度良い」当用漢字という制度が、 彼が漢字全廃の過程で「仮に定めるバラックなんだから、どうでもよい。 早くやれ」 という程度にしか見てないシロモノだった事に憤りを感じる。 曰く「しいてハッキリ言えばどの漢字も常用文字としては、 三文のネウチもない。この點をしっかりのみこんで手をつけるべきである。」 何を偉そうに!おまえなんかに文字の値打を云々して欲しくないぞ。 しかも主張の内容が馬鹿げている。 もし彼の理想が実現したとして、自身の言い分を書き直せば 「シイテハッキリイエバドノカンジモジョウヨウモジトシテハ、 サンモンノネウチモナイ。 コノテンヲシッカリノミコンデテヲツケルベキデアル。」 いやはや、電報じゃあるまいし、この糞忙しい時に、こんなもの読んでられるか。

「熱心なバカほどはた迷惑なものはない」と言いますが、 そいつが傲慢だったら、これはもう迷惑なんてもんではないですね。 でも、我々自身や、我らが公僕達あるいは先生方は、とかくこういう輩に弱い、 という伝統があるのかも。 アホの坂田さんに似た元代議士に私物化された外務省とか、 知事に蹂躙される都立大学とか、 社会科を地理と歴史に分けろという主張を飲んでしまった文部科学省とか…。

最後に…。漢字をやめてしまおうという試みは、 中国でも台湾でも日本でも頓挫していているようですが、 思えば、韓国のハングルはどう位置付けるべきなんでしょうか。 一度は漢字を受け入れたにもかかわらず、 今は殆どハングルだけで済ませられる、と聞いた事があります。 どこかに、韓国の表記法の変遷をわかりやすく纏めた本は無いでしょうか。


小説・映画: 藤沢 周平 「たそがれ清兵衛」 新潮文庫 1991

4/4/04 (Sun)小説:***--、映画:****-

私の場合大抵原作(小説)→映画という順番になる事が多いのですが、 これは珍しく、映画を見てから小説を読んだクチです。

山田洋次監督の手になる映画の方は、 惜しくもアカデミー賞を逃がしたようですが、なあに、 そんなお墨つきをもらわなくったって、良いものは良いのだ。 (アメリカ人にチャンバラ映画の良さが判ってたまるか:-P。) 少くとも私には、「王の帰還」や "Last Samurai" よりずっと面白かった。(実際、DVD でもう三度は見ました。)

ただ、一つ難点を言うなら、殺陣が「いまいち」かな。 概して間合いが近すぎるし、 棒きれで真剣とつばぜり合いをしたりする…。もちろん、最近の TV のチャンバラの大部分よりは「まし」なのですが、 他の部分にリアリティが有るので、「惜しい」と思いました。 (なんて偉そうに言ってるけど、剣道を齧った事があるだけで、 真剣での立合いなどは見た事もない。 で、何がリアルかなんて、分るはずもないのですが…。)

で、ふと見つけた新潮文庫版の原作の方ですが、これは短編集なんですね。 「たそがれ清兵衛」以下、8 編がまとめらています。 実は藤沢周平の小説は初めて読むのですが、これがなかなか面白い。 「たそがれ」だ、「うらなり」だ、「祝い人(乞食)」だなどと、 日頃軽侮されている主人公が、 ここぞ、という時に日頃隠していた剣の冴えを見せるのが痛快。 ただ、話が短かく、主人公がひたすら強いので、「そう、それで?」 と言いたくなるのが難かも。「剣客商売」の主人公もめちゃくちゃ強いけど、 ストーリが読ませるので、そんなふうな「落胆」をさほど感じない。 で、私としては、池波正太郎の方が面白いと思いますね。

さて、映画の方はこれらの話をつなぎ合せてできています。 (逸話だけではなくて、もちろん設定や背景も。) そして、プロットはどちらかと言えば最後の「祝い人助八」 から取っているようです。でも、 「ほいとすけはち」じゃあ、ちょっとねぇ…。 「たそがれ清兵衛」のほうがずっとしゃれているので、 ネーミングとしてはこれで正解なのでしょう。 山田監督の脚本は、これらをつなぎ合せて、 少しも破綻するところがなく、 かえって元の話より味わいが出ていると思います。 今回は「是非原作の方もお読み下さい」ではなくて、「是非 DVD を…」ですね。山田監督の次の時代劇も楽しみ。


小説・映画: Michael Crichton, Timeline, Knopf, 1999

3/24/04 (Wed)****-

最初に読んだのは大分前になります。可もなく不可もなく、 だったので何も書き留めずに終っていたのですが、映画を見たら、 原作をもう一度見たくなって…。

映画は、まあ、やっぱり、そこそこ(***--)ですね。 ストーリーが大幅に変更され、かつ過度に単純化されていて、 その上、原作を読んでいて、 「ここを映画で見てみたい」と思ったシーンはことごとくカット。 まあ、私が「見たい」 と思うのは、大抵映像にするのが難しそうなシーンばかりなので、 無理もないですが。でも、馬上槍試合 (Tournament) くらいは、やって欲しかったなぁ。 (しかしそうすると、ストーリーをかなり原作に戻さないといけないので、 これは無いものねだりか。それにしても、"The Lost World" で T.Rex が San Diego の街を走りまわったりするし、Crichton さん原作の映画って、結構すごい事になってますよね、いつも。)

で、再読した原作。「もっと入り組んでいたよなぁ」 という印象は、二度目になるとちょっと訂正が必要になりましたが、それでも、 もちろん、映画に比べたらはるかに複雑だし、心理描写も的確。 但し、「タイムトラベルの原理」の説明は稚拙。量子の泡に、物体(生体) の分子レベルの情報を(FAX みたいに)送り込むところまでは、まあ、 なんとか。でも、送り込んだ先に、受信機がなくても良いのは何故? このあたりの説明を読んで、「なる程これなら…」 なんて思う人が一体何人居るか。 "Time paradox" の説明だって、単に強引なだけだし。 もっと素朴な疑問としては「そもそも、FAX のように情報を送るのなら、その情報のコピーを作れるはずで、 いざとなったら、それを実体化すれば良いのでは?」

とは言え、そんな舞台回しの仕掛けはどうあれ、物語そのものは読ませます。 中世の冒険譚として特に優れてはいないかも知れないけれど、 現代人が中世の事物を実際に体験する、という設定はなかなか巧妙。 巻末の参照文献のリストを見ても、 かなり考証をしているのに違いなく、それぞれの記述が 「本物」(実際に有ったに違いない)と思わせます。例えば Tournament。 なにせ、試合のために下着から始めて、鎧を着せられるところまで、 大学院生(もちろん現代の)の感想込みで丁寧に書いてあります。 それと、その後の試合で、馬に乗るところから互いの槍がぶつかる瞬間までの Marek 助教授の心理描写はとても面白かった…。 (両者は、ある貴婦人の謀略で、 騎士達と槍試合をやらされる事になるのでした。) それにしても、歴史学の助教授が現役の騎士と槍試合をやって勝つとは…。

他にも、中世のヨーロッパに暮す事になったら、こう思うだろうな、 と思わず感情移入する場面はたくさんあります。 城や修道院のインテリアやそこでの生活、騎士たちのたたずまいや、 その体力・技倆や戦いぶり、また腕がもげ、首が飛ぶ剣戟…。 こういうのが好きな人には、たまらないでしょうな。「こういうの」 私も好きですが、別の側面、すなわち Crichton さんがさりげなく登場人物に語らせる言葉、 例えば「城は経済発展の手段だった」とか、 「騎士は高くつくのに、その時代で既に傭兵の弓の volleying に太刀打ちできなくなっていた」 とか、「それでも、政治的な階級となった騎士は永らえている」 等々も、おお、と唸らされました。(これって、弓を鉄砲に置きかえたら、 "The Last Samurai" のモチーフの一つですよね。) 私の中では Crichton さんは、こういった細部やものの見方の確かさで「もって」いるのでした。


Mook:「頭脳学のみかた」AERA Mook 1997

2/7/04 (Sat)***--

大部前に書いそびれてしまった本(体裁は雑誌?)を、 たまたま、通勤途上の本屋さんの店先で見つけたので、 思わず手にとってみました。 「バカの壁」で辟易したので、まさか養老さんは居ないだろうな、 と確認して買いました。(いや、本当です。)

だのに、なんたる不覚。電車の中で開いてみたら、 巻頭言は養老教授の文章でした。 もうあんまり関りになりたくない、と思う反面、7 年前はどんな事を言っていたのだろう、という怖いもの見たさで、 ちょっと読んでみたけど、やっぱり、ようわからん。

人の脳の典型的な機能は、「意識」である。これははなはだ神秘的で、 むずかしいものだ。多くの人がそう思っている。 それはたぶん間違いである。 意識なんて、金槌で頭を殴れば、すぐなくなるものである。

それがなんで高級か。

いやはや。(金槌で叩いて壊れるものに貴重なものはないのか?)

なんとか理解しようなんて無駄な努力は、もはやするつもりはないけど、 これにはびっくり。

血圧には、最高血圧と最低血圧がある。最高が 140 以上なら高血圧、最低が 100 以上でも、高血圧、などという。測定値がその中間にあれば、「正常値」 である。その判断基準は偏差値である。つまり、大勢の人の血圧を測る。 そうすると、たとえば 95 % 以上の人の最高血圧は、100 から 140 の間になる。それから外れる値を出す人が有ると、高血圧にされたり、 低血圧にされたりする。…

「最高血圧と最低血圧」と、 最高血圧の正常の「上限値と下限値」とを混同しているようですが、 書いている御本人は、論旨のおかしさに気付かないのでしょうかね。 「イデア」だとか「実在」だとかの議論だと、(勝手に定義を変えるので) すぐには彼の「非(没)論理性」を見極められないけど、 これくらい明白な例だと、私にも「彼こそ『馬鹿の壁』だ」と太鼓判を押せます。 それにしても、「最高(最低)血圧」などと言う (「血圧高いですな」と言われた事のある人なら) 誰でも知ってるような概念を、しっかり理解できていないのには恐れ入る。 この人は本当に医学部の教授で医学博士なのか?

いかんいかん。こんな事にかかずらっては時間の無駄。 このムックには、他にもたくさん記事が載っていて、 それぞれとても勉強になります。なかでも「脳の探究者 15 人」と題して、それぞれの専門家の研究分野を紹介するコーナーは、 その人の思い入れが伝わって面白く読めました。特に、甘利俊一さんや、 長尾眞教授の主張・抱負は非常に示唆的でした (というか、私にはこの二人しか馴染みが無いもので…)。 あと、加藤総夫氏の「白く軟らかい臓器」も迫力満点。 非常に短かい「脳の研究史」ですが、主な発見や研究の「位置」 が良く分りました。

しかし、なんと言ってもこれらは 7 年前の記事なので、現在それがどう変ったかを知りたい。 改訂版を出して欲しいぞ、AERA 編集部。(養老教授の巻頭言は要らないけど。)


新書:養老 孟司 「バカの壁」新潮新書 2003

1/11/04 (Fri)*----

この本の最初の印象は「散漫な文章だなぁ」でしたが、 読み進むにつれ、「うーん、 だからなんなの?」に変って行きました。 そもそも何が言いたいのかようわからんし、 かろうじて判明した論旨も、卒直に言えば半可通の「与太話」 の程度と思える。つまり、敢えて書く程の事か、と。

こんな本(失礼)が 300万部も売れるなんてなんでやろ、 とついつい下司な憶測をしてしまうのですが、 思うにこの本は、 帯の文章と小見出しのキレの良さだけで売れているに違いない。 (新潮文庫の編集者の手腕と言うべきか?)

例えば冒頭「『話せばわかる』は大嘘」というのが、 最初のページの小見出しで、かつ帯のキャッチフレーズにもなっている。 「『バカの壁』とは何か」という章題の後にこの小見出しが来たら、 「相互理解」とか「コミュニケーション」とか「犬飼首相の信念」とかに関する、 さぞかし説得的な議論が展開されるのではないか、と思うじゃないですか。 なのに出てくるのは…、と要約しかけて、はたと困ってしまった。 どうしてもうまく要約できない。(私がバカなのか、内容が散漫するぎるのか。) まあ、好意的に解釈するに、 聞く側にそれなりの意欲なりモチベーションが無ければ話は通じない、 と言ってるのかな? なる程。それはそうでしょうね。でも、それきしのことで 「『話せばわかる』は大嘘」なんて大見栄を切る程の事ではなかろうに。 また、「これも一種の『バカの壁』です」と断罪する程の事でもないですね。 そもそも、 誰のどんな態度を批判してるんだろう。誰かが「話せばわかる」 と信じて、他の誰かに話しかけて、 その結果なにかまずい事になっているからこそ、 ここまでこだわってるのだと思うけど、 具体的な例を挙げて欲しかった。(私にはさっぱりそんな例が思いつけない。)

言ってしまえば、見出しと本文が「羊頭狗肉」なんですが、 しかし、それ以前に本文の論旨が支離滅裂で「狗肉」 にもなってないように思えます。

例えば、

「日本には、何かを「わかっている」のと雑多な知識が沢山ある、 というのは別のものだということがわからない人が多すぎる。 出産ビデオの例でも、男たちは保健体育で雑学をとっくに仕込んでいるから、 という理由だけで「わかっている」と思い込んだ。 その延長線上から「一生懸命誠意を尽して話せば通じるはずだ、 わかってもらえるはずだ」 という勘違いが生じてしまうのも無理はありません。

これはその前のピーター・バカラン氏の「常識」対「雑学」 に関する意見に大いに共鳴して出てくる一節ですが、 たったこれだけの長さの文章が私にはなかなか腑に落ちません。

他の部分も大同小異。根拠が薄弱な上に、論理もおかしい。

なので、一々あげていてはきりがないので、 「どうしても許せなこところ」をいくつか挙げるに留めます。

(p.26) 例えば、ここにいかにも「科学的に」正しそうな理論があったとしても、 それに合致するデータをいっぱい集めてくるだけでは意味が無い、 という事です。 「全ての白鳥は白い」という事を証明するために、 たくさんの白鳥を発見しても意味はない。 「黒い白鳥は存在しないのか」という厳しい反証に晒されて、 生き残るものこそが科学的理論だ、という事です。

科学的理論の例として「全ての白鳥は白い」を出すセンスも「なんだかなぁ」 ですが、 「黒い白鳥は存在しないのか」(という疑問、問いかけ)が「反証」か? まったくまあこういう粗雑な議論がよく続けられるものだと感心します。

つまり、真に科学的である、というのは「理屈として説明出来るから」それが 絶対的な真実であると考えることではなく、そこに反証されうる曖昧さが残っ ていることを認める姿勢です。

あははは、カール・ポパーさんが聞いたらびっくり、の珍解釈! ポパーさんは時に訳のわからん事を言うけど、 いくら何でも「科学理論は曖昧であるべし」なんて言うはずがない。 彼が言ってるのは、理論というものは「正しくない」 と証明できる形になってないと、科学的な 理論とは言えない、という事。後で、養老さん自らが例に挙げている アインシュタインの「(重力によって)空間が曲っている」 という理論にひきつけて言うなら、 実験なり観測なりをしてみて、 (その理論が存在を予想する)「光路の曲り」がもし観測されなかったら、 その理論は間違っている、と証明 (反証) できたことになります。 で、科学理論とはすべからくそいういう形になっていないといけない、 という事。(ちなみに「すべての白鳥は白い」は実験なり観測で、 間違っていると証明できそうもないので、科学的理論とは言えない、 でしょうね。) 「ポパーがこう言った」という知識(「雑学」) はあっても、科学理論に関するこの程度の「常識」もないんだろうか。 それにしても、本当にこの人は「科学者」を何十年もやってきたんだろうか。

進化論を例にとれば、「自然選択説」の危ういところも、 反証ができないところです。 「生き残った物が適者だ」と言っても反証のしようがない。 「選択されなかった種」は既に存在していないのですから。

これは良く聞く議論ですね。但し、前半分までは。 自然選択説が「反証可能でない」のは、著者が 書いているような理由からではなくて、「適者」の定義が、「選択された種」 にならざるを得ないから(すなわち、トートロジーになっているから) なんですよ。

これも、帯に出てくるくだりですが (私はこれにだまされて本を買ったようなものなので、ひときわ腹が立つ)

(p.30) 知りたくないことに耳をかさない人間に話が通じないということは、 日常でよく目にすることです。これをそのまま広げていった先に、 戦争、テロ、民族間・宗教間の紛争があります。例えば…

これを脳の面から説明してみましょう。…

と、ここまで期待させておいて、聞かされるのは y = ax という一次関数を下敷きにした冗談みたいな議論なんだから嫌になる…。 数式が簡単だから馬鹿にしているのではないのですよ。 「説明してみましょう」などと大風呂敷を広げておいて、 ちっとも「説明」になってないのが情ない。 (話の中にやたら英語もしくはカタカナ語をちりばめる人が居ますが、 なんだか、この数式もそれに似ているような…。) 唯一自明でない帰結としては「a = 0 (無関心)より、a < 0 (嫌悪)の方が、a > 0 (好意)に変り易い」という事くらいでしょうか。 しかし、これだってどこかで聞いたような話だし。

また、a = ∞ が「原理主義」ってのもいまいちですなぁ。 他の事に耳を貸さない、目が行かない、という事なら、 せめて一次結合の式くらいにして欲しかった(y = a1 x1 + a2 x2 + a3 x3 + ... で、a2 = a3 = ... = 0 とするとか:-)。

それにしても言うに事欠いて、

ここで述べた事はヘリクツでも極論でもない。脳も入出力装置、いわゆる計算 機と考えたら当たり前です。普通はそう考えていないから、一次方程式に置き 換えると違和感がある。人間はどうしても、自分の脳をもっと高級なものだと 思っている。実際には別に高級じゃない、要するに計算機なのです。

いや、やっぱりヘリクツで極論でしょう。 そもそも計算機の世界で、「入出力装置」 と言えば、カードリーダーや、プリンタの事であって、計算機本体 (中央演算装置)とは違います。 まあそんな事より、ある数式がモデルというからには、 対象をどれくらいうまく説明しているか検証しなくてはいけないのに、 それをなんだか「ことわざ」のようなものでごまかして、 ヒトの脳が計算機にすぎず (これも既に相当に極論ですが)あまつさえ、 一次方程式で充分、なんて言うのは、 それこそ「わかったつもり」の極論でしょう。何より、現実にある紛争 (アラブ対イスラエル、イラク対アメリカ)の原因を、 相手を理解する能力・理解しようとする意欲の欠如だけに帰するのは、 そして、その状態を変更不能(困難)と示唆するのは、 「政治的暴論」でなければ「虚無主義」です。

(p.50) こう考えていけば、若い人への教育現場において、おまえの個性を伸ばせ、な んて馬鹿なことは言わない方がいい。それよりも親の気持ちが分るか、友達の 気持ちがわかるか、ホームレスの気持ちが分るかというふうに話を持っていく 方が、余程まともな教育じゃないか。 そこが今の教育が逆立ちしていると思っています。だから、どこが個性なんだ、 と私はいつも思う。おまえらの個性なんてラッキョウの皮むきじゃないか、と。

「おまえらの個性なんてラッキョウの皮むき」とはまたご挨拶ですが、確かに、 これ程独創的かつ個性的な議論を展開される著者に比べたら、 大抵の人は「常識的」な部類にはいるでしょうな。

この章は、最初から最後まで私にはわけのわからん議論が展開されているのですが、 ここに来て、どこがおかしいの分りかけたような気がする…。 一つには、「個性的であれ」という時、何を期待されているのか、 著者はおわかりでない、というか、わざと誤解している、というか。

「どうしても許せないのをいくつか」と思って列挙を始めてはみたものの、 「許せないもの」があまりにも多く、一向に終いになりそうもないので、 嫌になってしまいました。で、列挙はもう止めます。 かわりに、これから読む人への(私なりの)案内・注意を書いておきます。

要するに、帯のキャッチフレーズや章題や見出しの「斬新(乱暴)な断定調」 だけで売れている本なので、あまり真面目に取ってはいけない、という事。

それにしても、これも帯にある「朝日・毎日・読売、各紙で大絶賛」 ですが、本当なんですかね。私は見た事ないですが。 もし本当なら、そんな書評をした人は、よっぽどおめでたいか、 養老さんに借りが有るか、なのでしょう。


小説:Michael Crichton, Prey, Harper Collins, 2002

8/29/03 (Fri)***--

Michael Crichton の小説は、Timeline 以来なので、嫌が上にも期待は高まります。 だから、という訳でもないですが、ハードカバーを買いました。 Jurassic Park 並の衝撃を期待して。

が、はっきり言って期待は裏切られました。

何より、ストーリーの中心をなす nano machines があまりにも突拍子もない「進化」を遂げるのが興覚め。 例えば、そもそも、数百ナノメートル程度の大きさの動物なり人工物が、 人が走るより速く飛べる訳がない。 確かに「風に弱くて、少しでも強い風が吹くと Swarm は地面に落ちて活動をやめる」という設定になってはいますが。 推進の原理は "The machines actually maneuver by climbing the viscosity of the air." (同書 p.138) という事らしいのですが、 実は私はこれが何を意味しているのかよく知らない。 しかし、いずれにしても 10 m/s なんてスピードは無理でしょう。 (まさにその粘性に打ち勝つのに必要な(相対的な) エネルギーが大きすぎるのです。)

もう一つ気になったのは、撮像装置としての性能。血液中を移動して、 ミクロの像を撮影するバージョンの nano machine は、多数の個体が一つのピンホールカメラを形成して、 網膜にあたる部分の個体のそれぞれが撮像素子の画素を形成する、 という構想でした。 それはそれで、実現するには大変なブレークスルーが必要でしょう (各個体の信号から一枚の絵にするにはどのようにすれば良いのか、 私には想像も付かないし、また nano machine で暗箱を作ったのでは、光がもれもれになってしまう)が、 撮像装置としては、まあ、原理的には有り得るでしょう。 しかし、飛行する(人を襲う) 方のバージョンは、ピンホールカメラを構成する事なく、まるで各個体に (イメージを作れる)目が有るかのように振舞います。 こちらは「原理的に不可能」でしょう。可視光の波長は、500 nm くらいなので、 それよりはるかに小さいセンサでは(感度が取れない事は置くにしても) どうやっても「イメージ」を作る事はできません。

本書の中でも述べられていますが、swarm という emerging behavior を得るためには、各個体がたとえば「お互いに近くにとどまれ」 「しかしぶつかってはいけない」のような簡単なルールに従えば十分らしい。 しかし、これらのルールに従うためには、個体は目(かそれに類する) センサをもっていなければならないのです。実際 swarm もしくは、flock する小魚、鳥、アリ、シロアリ、いずれも目を持っていますよね。

要するに、nano machine が swarm するのは無理のように思えるのです。ましてや、その swarm が補食者 (predator) として振舞うのは、ちょっとありそうもない。 さらに倒した獲物を食べる事で増植するとなると、これはもうはっきり荒唐無稽でしょう。 それを敢えて無視した無理な想定をして、何を狙っているか、 というと、主人公達が(命がけの)バトルをする敵(相手)を作らんがため、 のように見えるんですね。

いつか、Arthur C. Clarke が、通俗 SF 映画のクライマックスはどうしていつもチャンバラなのか、 と想像力の欠如を嘆いていましたが(Star Wars が出る前です:-)、この Prey もある意味で、同様に「想像力を欠いた」作品のように思えます。 さしもの Michael Crichton もついに想像力が枯渇したのか、それとも読者の想像力のレベルを考えたら、 バトルが必要なんだと見通しているのか、どちらなんでしょうかね。


小説:Ken Follett, Hornet Flight, Signet, 1998

8/23/03 (Sat)****-

ちょっと前に読んだ Jackdaws があまりに面白かったので、これをミュンヘンの本屋で見つけた時は、 迷わず買ってしまいました。(他にも Pinker さんの新著を見つけたりして、とても幸運な休暇でした。)

これも凄く面白い。星が五つでないのは、Jackdaws の次に読んだので衝撃が柔らいだからだと思います(意味不明)。

舞台は第二次世界大戦初期、 ナチスドイツに降伏・占領された直後のデンマーク。 その頃のドイツは既に西欧の殆どを支配下に収めていて、 不可侵条約を結んでいたはずのソ連にやおら宣戦布告、 圧倒的な空軍力と、機械化部隊による電撃作戦で破竹の進撃を続けている。 チャーチルはドイツ本土への爆撃を強化する事で、Luft Wache(独空軍)の一部を西部戦線に戻す事を余儀なくさせ、 劣勢の赤軍への圧力を少しでも柔らげようと企てる。 が、独空軍の迎撃機は、待ち受けていたかのように英軍の爆撃機を補足して 次々に撃墜し(まだレーダーというものが知られてなかった時代の話です)、 英軍側は一回の出撃の損耗率が五割にも達しようかという悲劇的な状況。 しかも英軍側は、その新兵器がどういうものであるか、 さっぱり見当がついてない。

実は、その新兵器とは初期型のレーダーで(やっぱり)、 それを偶然見てしまったデンマークの高校生が、 その秘密を英国に知らせようと悪戦苦闘する、というのが粗筋です。 (いや、英国の諜報員や彼女が組織したデンマークのレジスタンスがからんできて、本当はもっと入り組んでいるのですが…)

主人公が若者だからか、ゲシュタポが脇役だからか、Jackdaws に有った「陰惨さ」がこの作品にはあまり無く、その分読後感も爽やか。 (それでも人は沢山死にますが。)

しかしまあ、この高校生は天才ですなぁ。 バイクのエンジンを蒸気機関に換装し、農機具のエンジンを直し、 飛行機まで修理してしまう。 何より、戦中の高校生が量子力学を齧って素晴しいと思い、それを志す、 なんて事が有り得るだろうか。 ニールス・ボーアが同じデンマーク人で、その頃まだ活躍中だとしても。 読んでいる時は「痛快」だったけど、 改めて考えるに、ちょっと「あり得ない」ような気もする。

それはともかく、登場する Hornet Mothとか、Tiger Moth がどんな飛行機なのか知っておくと、物語をより楽しめると思います。


小説:J. K. Rowling, Harry Potter and the Chamber of Secrets, Bloomsbury, 1998

2/22/03 (Sat)****-

私にとっては、出張の飛行機の中は「書き入れ時」。前の Ken Follett を米国滞在中に読み終えたので、 その帰りの飛行機と帰国後の国内出張の行き帰りで、 だいぶ「はか」が行きました。

で、ハリー・ポッター第二巻。

やはりそこそこ面白かった。でも、前回同様星は四っつ。 (星五つ、すなわち「出勤のときにうっかり鞄に入れ忘れると、 時間がもったいなくて歯噛みする」というところまでは行かない…。) しかし昨晩は、夜中の 2時過ぎまでかかって、読み終えました。 (これを星四っつの定義にしよう。)

二年目のジンクスを予期したけど、マンネリに陥るのは免れている。 シリーズなんだから、やはり大筋で似てしまうのは避けられないけど、 少くとも、「展開が読めてしまってがっかり」なんて事は無かった。 犠牲が意外な人達から出たり、ハリーだけが聞こえる「声」 の至極尤もらしい説明等々。

また、大人の(魔法使いの)世界とのかかわりが、 より色濃く出てくるのも面白い。Malfoy 父子と Weasley 一家の確執なんか、とても良く書き込まれていると思う。 もう一つ例をあげるなら、あの伝説的な Dumbledore 校長先生の去就が、なんと学校の「理事会」に左右され、 またその理事会の理事の面々があっさり恐喝や賄賂に屈する…。 しかし何より、Pure blood (両親ともに魔法使い)対 Mudblood (片親が Muggle)の対立(Pure blood の Mudblood に対する差別)が軸になってくると、ますますそれらしくなってくる。

第一巻で死んでしまった?某教授に代わって、 新らしい教授が就任するけど、こいつ (Prof. Lockhart) がまた「魔法使いの世界でパブリシティを得る事だけ」 を生き甲斐にしているような奴。 ちょっと「キャラクタが立ちすぎ」と思えるけど、 ポッターにおためごかしでするアドバイス (「急いで有名にならなくても良いんだよ」みたいな) が、かろうじて「ありそう」さを保っている…。それもそうだけど Hermione や Mrs. Weasley 等、とても聰明な女性(じゃなかった女魔法使い) 達が、軒並彼に好意を持つというのも、かなり皮肉。 ありそうで面白い、と言ったらさしさわりがあるか。

私の好きな Snape 教授は、相変わらず憎まれ役を演じているけど、 この人がどういう役回りなのかが、どうしても分らない。 第一巻で、ハリーが箒から落ちそうになるのを助けたりしたのに、 やはり、ハリー他の面々を目の敵にしている。全然分らん。これは、 続編への布石、と見た。今回 Hagrid の過去があきらかになっていって、 しかもそれがお話の中で重要な役割を担う…、 のと同じような展開になるんだろうな、きっと。

さて、お約束の映画の話になるはずなのですが、実はまだ見ていません。 ホテルの部屋で生れて始めて on demand video なるものを観賞しようと思ったのですが、Harry が Dursley 家から救出されるあたりで落ちて(寝入って)しまい、次に気がついたら、 もうそろそろ「おしまい」で、Harry が○○と闘っていました(^^; 大枚 $12 も払ったのに、勿体無い事をしてしまった。思えば、この第二話は、 封切り直後に英国に居合せるという幸運に恵まれながら、 「子供達と見るため」に取っておいたのに、帰国してみると、 彼らはそれぞれ友達と見に行く約束をしていた…、といういわく付き。 なんだか、呪われているような気がしてきました。なんだかんだで、 どうしても見る事ができない、とか、見ると死んでしまう、とか。


小説:Ken Follett, Jackdaws, Signet, 2001

2/14/03 (Fri)*****

いやー、面白かった。

後半、展開にちょっと無理が有るかなぁ、 という個所もありますが(私はこればっかりf(^^;)、 でも読ませます。 文句なく五つ星を進呈。内表紙?に "Page-turning fun" という評が有りますが、言い得て妙です。 本当にページを繰るのがもどかしいくらい。(あ、いえ、 そんなに速くは読めないんですけど、 電車の中で片手が塞がっているとこういう事態になります。 早くショルダーバッグの肩紐を修理せねば。)

時は、第二次世界大戦の後期で、 明日にもノルマンディー上陸作戦が敢行されようかという頃の話。 ドイツ占領下のフランスに、 女性ばかりからなる秘密工作部隊が送り込まれます。Jackdaws というのは、その作戦のコードネーム。 この促成の部隊の構成がまた凄い (殺人犯と、金庫破りと、…いかにも英国人が喜びそうな設定:-) のですが、これ以上はネタばれになりそうなので。

その部隊の指揮官(Felicity Clairet) と、それを迎え撃つ諜報担当の少佐 (Dieter Franck, Rommel の腹心) その両方の視点から交互に描くという構成が秀逸。 それがいやがおうにも緊迫感を盛り上げるので、例えば Felicity が Dieter の巧妙な罠をかろうじて逃れる場面では、 本当に我が事のようにほっとしたりして…。

これは映画になりますね、きっと。 ただし何年先かは保証の限りではありませんが。 (なにしろ、私がいたく感激した Ludlum の「暗殺者」は、映画("Borne's Identity") になるのに 15年かかりました。 "Sigma Protocol" の項参照)


小説・映画:J. K. Rowling, Harry Potter and the Philosopher's Stone, Bloomsbury, 1997

1/8/03 (Wed)****-

先日、外国の空港で人を出迎える等という事を初めてやるはめになりました。 さすがに緊張して、一時間も前に着いて待つことになったのに、 うっかり読む物を持っていくのを忘れてしまいました。 で、小さいニューズスタンドでとりあえずの本を物色してたら、 ふとこの本が目に止まりました。(118 SEK 也。安くない)

読む前は、「所詮ジュブナイル、大した事はなかろう」 などと多寡をくくっていたのですが、案外いけました、これ。 「『こんな事は有り得ねぇ』と思ってしまうと興覚め」という私の病気が、 「これは魔法の世界なんだ」 という事で、「はな」から封殺されていたのが、その原因でしょうか。

それにしても、たとえば Ron と友情を深めていく間の Harry の心理の描写は、おやじの私を「うーむ」と思わせるもの (カタルシス?) がありますし、魔術学校の教師達のキャラクタも過度に単純化されていない。 でも、こういうのを近頃の子供は理解して楽しむのですかねぇ。 恐るべし。

という事で、大人にも楽しめる一編だと思います。 (既に大ベストセラーなので、今更私が勧めるのもナンですが。)

映画も観ました。かなり原作に忠実で好感が持てるのですが、 でも逆に、「いくら長くしても小説のように凝ったプロットにはできない」 という事の証明のようにも思えます。映画を見て「良かった」 と思った人は、是非原作も読んでみて下さい。


ノンフィクション: A. Beevor, Stalingrad, Penguin Books, 1998

11/24/02 (Sun)****-

第二次世界大戦のターニングポイントとなる「スターリングラード攻防戦」 という重い題材を本格的に扱った、まさに大作。 私には手応えがありすぎて、苦節三ヶ月、 やっと読み終える事ができた、というのが本音です。

裏表紙に集められた書評の称賛の中に「夢を見ない人だけが、 この本を寝る前の読物にできる」というのがあって、何の事だろ、 と思っていましたが、読み終ってみると「なる程」と納得。 そのリアルな悲惨さは、まさに「夢に出てきそう」な程。 でも、私には、免疫が有りました。

David L. Robbins "War of the Rats," Bantum, 1999 をちょっと前にに読んでいたから、です。 この小説は、 スターリンラード攻防戦で活躍した一狙撃兵をモデルにしたもので、 極私的にはお勧めの一冊(***** 映画 "Enemy at the Gate" (邦題「スターリングラード」)の原作)。 ただ、この本のエピローグ的な最後の一章だけは「読まなければ良かった」 と思いました。 捕虜となったドイツ兵達の悲惨な運命は、まさに夢に出てきた程。

Beevor の本ではその悲惨さが全編至る所に出てきます。 捕虜を虐待して大半を死なせてしまったのは、何もソ連(軍) だけの事ではなく、ドイツ軍も、 その諸戦の快進撃で捕えたソ連軍の捕虜を、虐待の上、 たくさん死なせているのです。もちろん、 非戦闘員にも酷い仕打をやっている。 だから、言わば「当然の報い」なのですが、 それが余計やりきれない思いにさせます。

やり切れない、と言えば、ヒトラーのドイツと、 スターリンのソ連という独裁国家の野蛮さも、そういう気分にしてくれます。 ナチス・ドイツの蛮行は言うに及ばない事ですが、 こと戦闘においては、 ソ連軍もしくは時の政権の非人間性の方が際だっています。 諸戦の状況把握の失敗による赤軍の壊滅が、 スターリンの責任であるのは明白ですが、その後も、 戦術的もしくは戦略的な観点を無視した戦争指導で、 大量の人命を失ないます。そして、自軍の将校・兵士の大量の処刑。 その根本にあるのは、「自国の市民に対する不信と恐怖」 「人間に対する想像力の完全な欠如(人命の軽視)」等でしょう。

映画「スターリングラード」では、 空襲を避けて「はしけ」からヴォルガ河に逃れようとする兵士を、 将校がピストルで射殺するシーンとか、 二人に一丁の割合で銃を持たせただけで突撃させた上に、 反撃に合って退却してくる自軍の兵士達を機関銃で薙ぎ倒す、 等というシーンが描かれていました。 原作にそんな場面は無かったし、何より、 兵士をそんな風に扱って戦闘に勝てる訳がない、 という思いから半信半疑だったのですが、 この本を読んだ後では「十分有り得る」と思えます。

そんな政権が長続きするはずはない(して欲しくない)のですが、 ヒトラーがしかけた戦争に勝利する事で(スターリングラードがその転機)、 スターリンとその政権の威信は国際的にも国内的にも確立されます。 言わばヒトラーの「ちょっかい」が、その後 50 年間に渡ってロシアと東欧を抑圧する政権の基盤確立を助けた訳です。

それやこれやで、とてもやりきれない気分になる本ですが、 手応えは十分、です。(あなたがもし、小林某の「戦争論」 もなかなか良い線行ってる、等と思っていらっしゃるなら、 是非お読み下さい。)


小説:浅田 次郎 「歩兵の本領」 講談社、2001

9/5/02 (Thu)*****

文句無く面白い。是非お読み下さい。(で、済ませたんじゃあ、 あまりにも素気ないか。)

実は私、この世界(陸上自衛隊) とまんざら無縁でもないのです。学校を出た後 8 年くらい、某コンピュータメーカーで防衛庁関連の仕事をしていました。 納入した機器の「野外試験」のために、 上富良野や東富士の演習場にも行った事もありますので、 本書にでてくる演習での「状況」というのもわかります。

そう言えば、東富士演習場で試験をした時の事。 バラック小屋で徹夜の試験をした後、 明け方雨の中を小用をしにフラフラと小屋を出て、 都合の良さそうな窪みを見つけて近寄ってみたら、 雨の中、泥まみれで完全武装の隊員さん達が、10 人くらいもうずくまっていた、なんて事もありました。 (本当にびっくりしました、はい。オシッコなんか引込んでしまいました。)

という訳で、まさか懐しい訳ではないと思いますが(ちょっとは有るかも)、 親近感は確かに有ります。とは言え、「お客さん」 だった私には、隊員さん達の「人生」や「思い」を、 表面をなぜる以上に知っていたとは思えませんが。

一方、この作者は入隊の経験があり、それに基いての記述なんですね。 それでこんなにのめり込む程、面白く読めたのだと思います。

取りようによっては「陰惨」とも言える話が多い (例えば、古参の隊員は新しい隊員を殴ってばかりいる)のに、 どこか滑稽味があって、そして泣かされます。 そうなるのは作者の筆力によるところ大なのでしょうが、 やはりその「人間味」のせいもあるのでは、とも思います。

そして残った自衛隊の印象は「何だか安心しちゃうなぁ」でした。 二・二六事件は二度と起きないだろうとか、 外国の侵略に対して、言われている程全く無力じゃないかも、 とかいうような類いの「安心」も確かに有りますが、それより大きいのは、 良くも悪しくも自衛隊の内務班(おっと営内班でした)は日本の縮図なんだ、 という妙な納得です。

それにしても、軍歌「歩兵の本領」の最後のところは、
「散兵戦の華と散れ」
じゃなくて、
「散兵線の華と散れ」
じゃなかったかなぁ。


小説:Robert Ludlum, The Sigma Protocol、St. Martin's Press, 2001

7/13/02 (Sat)***--

もう15年以上も前の事になりますが、同じ著者の小説「暗殺者」を読んだ時 の興奮をまだ覚えています。私は滅多に人に本を勧めたりしないのですが、 これは手放しで「いいですよう」と沢山の人に触れて歩いた覚えがあります。 でも、同じように感心してくれた人は殆ど皆無だったような気が…。 (で、それ以降、ますます人に本を勧める事に慎重になった次第。)

ラドラムさんは、小説を 25 冊も書いているそうですが、私が読んだのはそのうちの 5 〜 6 冊でしょうか。たったそれくらいで「括って」 しまっては申し訳ない気もしますが、 なんだか、どれも似ているような。 プロではないが精神的にも肉体的にもタフな主人公、国際的な陰謀 (ナチスがらみが多い)、 世界中の都市を舞台にした目まぐるしい展開…。

今度のこの本も、その括りにピッタリあてはまります。

で、確かに面白いのですが、何回も同じような話を聞かされると、 さすがにもう感動するところまでは至りません。

なにより、すごく大掛かりな舞台が最後までチグハグなまま、 という印象は免れません。 なんか、私の悪口ってこの類いが多いようにも思えますが、 広げた大風呂敷はちゃんと物を包んでくれないと、納得できないんです、私。

という事で、これまで Ludlum をあまり読んだ事が無い人には、お勧めです。


小説:R. D. Wingfield, A Touch of Frost、Bantam Books, 1995

5/26/02 (Sun)****-

この小説の Frost 警部は、 Collin Dexter の Morse 警部とはまさに対照的。 がさつで下品で、Frost 「軽侮」と呼びたいような主人公だけど、 話はとにかく面白い!なにより、展開が早くて、 しかも最後にそれぞれの細部が「かちっ」と音を立ててはまるのが良い。 また、「ちょっと待て」といいたくなる「常識外れの無理な展開」 が少いのも面白く読める理由かな。 (少ないけど、全く無い訳ではない。後述。)

でも、なんで、こんな奴にこんなに魅かれるんでしょうね。 実際にこんなのが同僚(もしくは上司、部下) だったら疲れるし端迷惑だし、願い下げにしたいところ。 でも小説で読むぶんには、感情移入してしまう。(こうありたい、 というのではなくて。) だらしないところやドジなところが、 自分も多分にそうだからかな。(でも、これ程酷くはないぞ、と。)

でも一方で、(上司ではなくて)弱者に頼りにされてしまうと、 自分でも「馬鹿げている」 と思いながらもやむにやまれず肩入れしてしまう「おとこぎ」 のあるところとか、 ひたすらおべっかを使う事に専念する上司や、 評判と服装(見栄え)ばかり気にしている同僚なかで、 職業倫理にだけ忠実であろうとするところとかは、それなりに格好いい。 「それなりに」というのが私には大事なところで、 あんまり格好いいと「嘘臭い」と思えてしまうんですね。 (年のせいなのか、もともと僻みっぽいせいなのか解りませんが。)

格好良すぎ、という事では、 最後のところで犯人に自首をすすめるところなんか、 拍手したくなるくらい「きまって」いるけど、 まあこれはクライマックスという事で大目にみてあげよう。

他にも揚げ足とりをしたくなる場面が無い訳ではない。その一。 フロスト警部は幸運すぎないか?いや、他の点では、十分に不運なんだけど、 こと証拠に関しては、ちょっと御都合主義かなあ。なにせ、 被疑者の目を盗んで、(不法に)ちょこっと他の部屋にはいって 引出しを物色したら有効な状況証拠がそこに有った、また帰り際、 被害者のコートのポケットを探ったら、証拠の写真が…、 なんてのが一度ならず。

その二。フロスト警部は[すごく無能」 という事になっているのに(結果だけから言うと) 本編に出てくるあまたの犯罪を彼一人で全部解決している。 途中で持ち出すひどい「推理」を冗談だとすれば、本当はシャーロック・ ホームズ並なんじゃないか?

という事で、お勧めの一冊です。


新書:R. M. W. ディクソン著、大角翠訳 「言語の興亡」 岩波新書 2002

5/11/02 (Sat)****-

題名から推して、「祖語の祖語」というような話題を期待していたのですが、 そんなもの(ノストラ祖語と言うらしい)はナンセンス、 とあっさり切り棄てています。 言わば(一方的な)期待を裏切られた訳ですが、それでもこれは面白い本です。

解らない事は解らない、と言い、間違っている説ははっきりそう指摘する。 この手の解説本には珍しい程の歯切れの良さ。しかも、その論旨が明解で、 その歯切れの良さが単なる独善に陥いっていない。(とは言うものの、 書いてある事が私に全て理解できたかというとちょっと心許無いのですが(^^;)

歴史言語学に古生物学の「断続平衡仮説」(エルドリッジ、グールド) を導入して、系統樹モデルは、その(平衡の) 中断期にのみ適用できるモデルで、平衡期には適用できない、 というのが中心的な主張。言われてみれば、 「言語」と「種」って良く似ています。 ある亜種が別の亜種と交配可能であれば、 いずれもが一つの種に属すると言えるように、 言語も二つの方言を話す人が相互に 70 % 以上理解できれば、その方言は一つの言語と言える。 また、種が分化する時と同様に、 言語が分化する時も短期間で変化が完了する。 分化が完了するには、どちらも地理的な隔離が必要…等等。 だから、どちらも系統樹モデルが良く適用できる。

しかし、アナロジーもここまで。 平衡期の種が互いに混じり合わないのに反して、 言語は接触のある他の言語の影響を受ける。従って、 平衡期にも、系統樹モデルには従わない(分岐だけではない、 ゆっくりとしているが大きい) 変化をする。次の中断期の系統樹モデル的な変化の幹(祖語) は、この変化を被った後の言語である。従って、言語に関しては、 生物進化の場合のように全てを包括する系統樹は再現できるとは限らない (祖語の祖語は決定できないし、有ったかどうかも解らない。)

これ、私にとっては、目からウロコでした。

他にも、

等と言う、目を剥くような(でもワクワクする)話もいっぱい詰っています。


小説:Patrick Robinson, The Shark Mutiny, Arrow Books, 2002

5/5/02 (Sat)*----

巻頭の献辞でいきなりびっくりさせられます。

This book is respectfully dedicated to everyone who opposes the reduction of US Naval budgets, especially those politicians willing to reverse the process.

事の委細は問わず、とにかく海軍予算を減らす事に反対する人に捧げる、 ってんだから、相当のもんです。特に、政治家(屋?)に…、 と言ってますが、もしこんなところに実際に名前を挙げられたら 怒るでしょうねぇ、その政治屋さん。 それはともかく、こんな献辞を書く人の小説って、どんなだろ、 という興味(怖いもの見たさ)だけは、確かにふくらみます。 という事で、この献辞は成功か:-)

肝心のストーリーの方ですが、意外に読ませます。 個々の戦闘シーンとか、 危険を承知でそれにつっこんで行くタンカーの船長の葛藤とか。 思わず引き込まれる個所もありました。

でも、「なんだかなぁ」は勿論あります。 その一、ひどく類型的(ありがち:-)な人物描写。 何より、献身的で勇敢な軍人と、官僚的で無能、 もしくは心理学的に問題のある軍人との対比が、 あまりにもはっきりしているのには笑えます。 こんなにはっきり無能な人物が核戦略の一翼を担っているなら、 おちおち夜も寝られません。

その二。戦略的な妥当性なんて事は 「はなから」著者の念頭には無いんでしょうけど、 なんぼなんでも、米国の安全保障担当の大統領補佐官が、 「台湾を中国の侵攻にまかせるが、 代りに海外に有る唯一の中国の海軍基地を壊滅させる」 なんて判断をする訳がない…。(いや、 ちょっと心配くらいはしておいた方が良いのかな?とにかく 「日米安全保障条約」は、ちょっと値打が下ったように思える:-)

その三。その暴君だが愛敬のある(そして優秀でもあるらしい) 補佐官の権力と影響力をもってすれば、Shark の艦長が最初に問題のある振舞いした時点で、 それが彼の耳に入ってクビ、とどうしてならなかったのか不思議。実際、 その直前に国家安全保障局の局長を、 無能という事であっさりクビにしているのだから。

それやこれやで、 全体としては「何これ」的なちぐはぐな感じが否めないのですが、 本題というべき反乱に関する軍法会議の結末 (敢えてここには結果は書きませんが)まで読んでも「だから何なの」 と言いたくなる…。作者としては、 米国海軍の威信を救ったつもりなんだろうけど、これは逆効果じゃないかな?

という事で、金返せ的な駄作でした。

原潜内の反乱を描いた小説としては他に R. P. Henrick の Crimson Tide が有ります。こちらの方が絶対お勧め(*****)です。ただ、 残念ながら現在品切れのようです。映画の方は VHS で、字幕版も吹替え版も入手可能。でも何故か吹替え版は16,000円もする。 Denzel Washington と Gene Hackman 主演で、手に汗を握ります。


辞書:研究社「新英和大辞典」第六版

4/27/02 (Sat)***--

このような権威ある辞書を批評するなんて、 我ながらなんという畏れ多い事を:-) 何よりも、実はまだ買ってません。ただ、 書店でもらったパンフレットの中に「実物見本頁」というのが有って、 その中にちょっとひっかかる記述が…。

digital signal n. [電子工学]デジタル信号 ((モールス信号のように、離散的な量により構成される信号))

「離散的」も変だし、「量」がここで出てくるの もおかしいような気がするけど、何より、 ディジタル信号の説明にモールス信号を持ち出すのは適切とは思えない。 「電話が普及する前のモールス信号(符号) を用いた通信はディジタル通信と呼んでいいのか?」

第一、そのすぐ前に

digital recording n. デジタル録音 ((音のアナログ信号やコンピュータ用データをデジタル信号に換えて記録する事;高品質の録音再生が可能))

の項目が有るので、この二つを素直に読んで「デジタル録音って モールス信号で録音してんだぜ、知ってた?」 なんて言いだす人が出てくるのは必定。(んな訳ないか:-)

しかし、この説明自身もまたちょっと変ですね。 コンピュータ用のデータをディジタル信号に換えるって? アナログコンピュータのデータの事か?

なんだかなぁ、と思いつつ、手持ちの第五版を見てみると、digital signal の項は、なんと第五版からそのまま残っているんですね。(digital recording の方は、第六版から現われたもののようです。)

とは言え、これくらいで、この英和大辞典に対する私の信頼(信仰) は揺ぎません(上の例でも訳語だけとれば正しいし:-)。 お金を貯めて是非買おう、と思っています。でも、 どうして電子版を出さないんでしょうかね (パンフレットの中で、出さないと言いきっています)。第五版が出る時に 「人手による改訂はもう限界。 次はコンピュータを使った編集になるでしょうね。」 なんて言葉を見たような気がする。もしそうなら、 是非電子版を出して欲しい。一度電子辞書を使う味を覚えると、 重い辞書を「どっこいしょ」と本棚から抜きとるのは「苦行」 のように思えるし、ましてや持ち運ぶなど想像もできないので。


小説:Stephen Hunter, "The Master Sniper," Dell, 1980

4/21/01 (Sat)**---

自分がたまたま読んで気に入った小説が、その後評判になったりすると、 誰かに吹聴したい気分ですよね。 この著者の "Point of Impact" (ハンター、「極大射程」)もまさにそういう本 で、自分にとっての新境地を開いてくれた、みたいな感動がありましたが、 その後、新聞の書評に激賞されて余計良い気分に。 それで嵌ってしまって、"Black Light," "Hot Springs," ときて、 この本が4 冊目になります。

で、その4 冊目ですが、はっきり言って、今迄読んだ 3 冊程面白くありま せんでした。

上に挙げた三冊は、いわば「主人公のキャラクタが全て」というところがあ りますが、この「Sniper」では主人公がそれ程うまく描かれてはいません。 そして何より、プロットが御都合主義的かつ尻すぼみ。 ここら辺はネタばれになるので触れませんが、どうしても納得できなかった 点をいくつか挙げます。それが 銃器と赤外線暗視装置という Hunter さんが得意とする分野なんで、格別 「ちょっとなぁ」という感じなんです。

一つは亜音速の特殊な弾丸で殆ど音がしない銃、というドイツ軍の新発明。 まあ、それで音が消せるかどうかは私には良くわかりませんが、これで400 m 先の動く標的を狙う、というのは非現実的です。仮に弾丸の初速が、300 m/s だとして、弾着まで1.3 秒。その間に弾丸は 8 m あまりも落下します。 50 cm やそこらなら、補正もできるでしょうが、 こうなると狙うのは殆ど不可能でしょうね。 第一正確に測距できないと、その補正値も得られない。また、 標的が動く物体だと(特に走り回る子供だったりすると)1.3 秒後の位置を予測するのは、至難の技です。

もう一つは、赤外線暗視装置。こちらから赤外線を照射するのではなくて、 常温の物体(標的)が出している赤外線を検知するので、パッシブ IR と呼ばれる暗視装置を、ドイツ軍が敗戦間際に開発実用化する、 という想定です。 この可否はともかく、 フィールド試験の標的となった捕虜の一人が助かって逃亡、 アメリカ軍に救助される、というのがプロットの重要な部分なんですが、 その助かった理由というのがいただけません。 真っ暗闇の中で作業をさせられて (実は射撃試験の標的にされて)いた 15人のうち、この 一人だけ熱吸収の良い物質を含んだ 新聞紙を外套のつめものにしていたせいで、暗視装置から見えず、 助かってしまうのですが、これは有りそうもない想定です。 ちょっと考えれば解りますが、かなり着こんだら、 服の表面温度は殆ど外気と同じで、 その後は少々つめ物をしたくらいでは変りません。(パッシブ IR 暗視装置は、その表面温度差を「見て」いるのです。) 何よりも、露出している顔や手は(表面温度が高 いので)暗視装置では一番はっきり見えるので、これを完璧に隠さないと、 暗視装置からは透明人間にはなれないのです。

まあ、こんな事は無視して、楽しめればそれで良いのですが、 私は(これらにひっかかったせいか)あまり楽しめませんでした。

でも、"Point of Impact" (「極大射程」)はお勧めです。 まだでしたら是非読んでみて下さい。


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Taka Fukuda
Last modified:2009-07-03 (Fri) 13:49:54 PDTT